―262―「ルイスの絵は、全くどうしようもない!」とこの絵に対して嫌悪感を示している(注4)。キャムデン・タウン・グループは、ドガの影響を受けたウォルター・シッカートを中心に1910年頃形成されたグループで、都市のありふれた日常を陽気に描き出すことを得意としていた。先のピサロやゴアもメンバーであった。彼らのような色彩豊かな明るい画面とルイスのこの作品を比較するとその違いは際立って見える。ルイスの作品は「男根を引き伸ばしたような鼻」(注5)や歪曲された身体をもつ非常にグロテスクな人間たちがペンとインクで描かれている。半円と楕円を基本形とした人物像には色彩の使用は最低限に留められ、背景の斜めに配された分割線が強調されている。こうした形態表現や構成は、英国18世紀の版画家ジェイムズ・ギルレイの風刺画〔図5〕を連想させる。その一方で、この作品に描かれたようなエドワード朝の大衆演劇は、リチャード・ハンフリーズによれば、ロンドンでは馴染み深いものであり、シッカートをはじめ、他の画家も好んだ主題だったとされる(注6)。第二回ポスト印象派展オーガスタス・ジョンやジェイムズ・ギルレイら自国の芸術家たちの作品の影響をうかがわせるルイスの作風は、キュビスムという新しい造形言語を獲得することで、さらに形態の単純化と線的な構成へと向かっていった。すなわち、スレード美術学校で培われたアカデミックな素描からの転身がこの1910年代前半のルイスに見出せるのである。その契機の一つとなったのが、おそらくはロジャー・フライが企画運営した1910年の「マネとポスト印象派たち」展であったと思われる。この展覧会ではマネの他、フランスの印象派以降の美術が紹介され、とりわけゴッホやゴーギャンの作品が多く、それぞれ30点以上が展示された。それらは先述のキャムデン・タウン・グループの作家たちに支持された。同展覧会で紹介されたセザンヌやピカソの作品は、1911年以降のルイスの絵画形式に大きな影響を及ぼしている(注7)。1912年秋に開催された「第二回ポスト印象派展」では、前回主軸に置かれたゴッホとゴーギャンの表現主義風の絵画が排除され、代わってピカソとマティスの作品とそれらに追随する芸術家の作品がフライによって入念に選ばれた。フライは、非難が集中したゴッホの激情的な筆致やゴーギャンの象徴的な表現を退け、知的な造形言語を有する絵画を展示することで、批判をかわそうとしたのである。加えて、第二回展でThe Theatre Manager〔図4〕は、ルイスがロンドンで画家として活躍するようになったばかりの頃の作品で、1911年6月に行われたキャムデン・タウン・グループ第一回展覧会に出品された。ルシアン・ピサロはスペンサー・ゴアに宛てた手紙の中で、
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