鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―264―の類似も確認できる(注15)。ヴォーティシズムの活動1910年から1914年の間に数回行われたマリネッティの講演と、1912年のサックヴィル画廊の展覧会の効果も手伝って、未来派は、先のダンカン・グラントの構成においてもその影響が顕著に見られるように、同時代のフランス美術と並んで英国の若い作家たちの間で注目されるようになった(注16)。1913年11月、ルイスはフィレンツェでマリネッティと夕食を共にした。このことがマリネッティのロンドン再訪につながり、1914年に第二回未来派展が開催された(注17)。1914年の春にルイスが、ヴォーティシズムの前身、レベル・アート・センターを発足させたのも、マリネッティの影響を受けている(注18)。実際、マリネッティが1913年1月の創刊号から最終号の1915年5月まで寄稿し続けた実験的新聞『ラチェルバ』は、ヴォーティシストの機関誌『ブラースト』の手本となった。にもかかわらず、ルイスらヴォーティシストたちは、機械に対する未来派の盲目的な信仰を批判し、自分たちの運動をこの未来派と区別した。さらにルイスは、ヴォーティシズムをキュビスムともフライのポスト印象派とも異なる特別な芸術運動とみなした(注19)。ちょうどその頃、1914年5月から6月にかけて開催されたロンドンのホワイトチャペル・アート・ギャラリーの「20世紀美術展」では、こうしたルイスの考えを体現するように同時代の英国美術におけるヴォーティシズムの特異な立場が際立たせられた。この展覧会は、英国における1890年から1910年までのアカデミーの伝統とは異なる新しい美術の動向を一望しようという試みで、企画者ギルバート・ラムゼイによって、英国の現代アートが4つの傾向に分類された。それぞれ、シッカートとルシアン・ピサロ、オーガスタス・ジョン、セザンヌらに追随する傾向が示され、ルイスらヴォーティシズムのグループは「再現の完全なる放棄」として4番目のセクションで紹介された(注20)。他三つのセクションの傾向をルイスが通過しているにもかかわらず、ラムゼイがこれらとルイスを明確に区別しているのは面白い。ヴォーティシズムは1910年代半ばの数年間に、幾何学的な抽象表現を徹底的に追求した。たとえば、同展で展示されたSlow Attack〔図15〕は、ジグザグに走る力強い線と白黒の対比が印象的である。ジグザグの線は、断層のように重なり合い、都市や人々を飲み込んでいる。題名から予想されるように、戦争直前に書かれた油彩画である。彼の同時期の作品には、Workshop(1915)、Planners(1915)と都市や労働に関するもの(注21)と、Composition〔図16〕の連作のように造形的構成をそのまま主題とするものがあった。

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