―272―(左闕)は闕身部分のみ当初の姿を留め、現在の頂蓋は後補である。一方、西闕(右きる。そのひとつが四川省雅安市姚橋郷に現存する高頤闕である。ともに現存する碑文の記述から、墓主の高頤は建安14年(209)に没したことが知られ(注2)、石闕の造営もそれとほぼ同時期とみてよかろう。高頤闕は東西の双闕が13.6mの距離をおいて相対しており、この双闕に扉が付属していた形跡は、現状では認められない。東闕闕〔図1〕)は、母闕、頂蓋のほか、母闕に付属する子闕もともに完存する。母闕は石材を13層横積みにして構成され、総高は590cmに達する(注3)。〔図2〕は、雅安・高頤闕をもとに作成した石闕の概念図である。概ね、四川地域に残る各作例の総高は、4〜6m弱の範囲におさまる。主な図像が浮彫りされる場所は、概念図にみる上層の「楼観部」にあたる。つまり、石闕を目にする場合、見上げる位置に多様な図像が浮彫りされているのである。これは他地域の石闕には見受けられない特徴であり、墓域を訪れる者にとっては、石闕が非常にモニュメンタルな建造物に感じられたであろうと想像される。もっとも、楼観部に刻された図像については、風化が著しく現在では判別が困難なものも少なくない。その中で高頤闕は、保存の良さと豊富な図像によって、四川漢代石闕を代表する作例として知られている。では、高頤闕西闕の北面楼観部にあらわされた代表的な図像をみていく。まず、頂蓋の直下、楼観部の最上段中央には、歴史故事に取材した「周公輔成王図」があらわされている〔図3、4〕。西周の名臣として名高い周公旦は、兄である武王の死後は甥の成王に仕え、生涯にわたり忠義をもって君主成王を補佐した人物である(『史記』巻33、魯周公世家など)。傘をさしかけられている幼い成王に忠義を誓うこの場面は、後漢時代には儒教的徳目である「忠義」を象徴するものとして特に好まれたようで、たびたび石刻画像として描かれている。つづけてその下層、北面楼観部の肘木の間には、九尾狐と三足烏〔図5〕、そして二羽の霊鳥があらわされている。これらの鳥獣をはじめとした西王母の眷属は、主である西王母の有無に拘らず、ほぼ全ての石闕で確認される図像である。西闕南面、楼観部最上段の中央には、半開の扉から半身を覗かせる人物がいる〔図6〕。双髻を結うこの人物は、肩から羽翼が生え、裳裾は翻る姿であらわされており、扉の先にある仙境の住人とみてよかろう。この半開門図は、石闕の南面、すなわち現世(墓域の外)に面した側の楼観部最上段にあらわされており、そこから半身を覗かせる神仙は、昇仙する墓主の霊魂を迎えに来ているものと考えられる(注4)。西闕西面、肘木の間には、「季札挂剣図」があらわされている〔図7〕。春秋時代、呉の季札は使節として北方に赴く途中、徐国において徐君が自分の佩刀を欲している
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