鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―273―ことを知り、帰途贈るつもりで立ち去った。戻ってくると徐君はすでに亡くなっていたが、季札は墓前に佩刀を挂け自己の心の約束を果たしたという(『史記』巻31、呉太伯世家など)。季札が冢の樹上に佩刀を挂け、それを前にして哭泣するこの場面は、儒教的徳目である「仁義」を称揚するものである。以上、高頤闕にみる代表的な図像を幾例か確認した。ところで、漢代の人々は、死後に崑崙山へと昇仙し、西王母のもとで永遠の生を享受することを死後の理想としていた。後漢時代、西王母を中核とする昇仙志向が最も根強かったのは、他ならぬ四川地域であったことが指摘されている(注5)。また、墓域に建つ石闕が、地上の現実世界と死者の向かう崑崙仙境とを結ぶものであるならば、そこに西王母の眷属など「仙境へと連なるイメージをもつ図像」があらわされるのは、至極当然のことと言えよう。それらとともに墓主を迎える半開門中の仙人をあらわすのも、石闕が仙境へと通じる入口であることの表象に他ならないのである。二 儒教図像の機能に関する従来説以下、本稿では、本来は神仙思想とは異なる思想背景をもつ図像、すなわち、周公輔成王図や季札挂剣図といった儒教図像の石闕上における機能について考えてみたい。儒教的な歴史故事を画題とすることの意義については、唐代の張彦遠『歴代名画記』巻1冒頭で言及されているように、それを鑑とすることにより、観る者に対して勧戒的作用が及ぶことを期待したものである(注6)。四川地域において石闕が盛んに造営された後漢時代後期においても、そのような儒教的勧戒主義に基づく役割は同様であった。霊帝代の儒家官僚である陽球は、画像を描く目的について、霊帝に次のように奏上している。臣聞くならく、図象の設くるは以て勧戒を昭らかにし、人君をして動に得失を鑑せしめんと欲してなり、と。未だ豎子小人の詐りて文頌を作り、而して妄りに天官を窃み、象を図素に垂る可き者を聞かざるなり。【『後漢書』巻77、陽球伝】ここにみる陽球の進言の内容は、画像とは観る者に勧戒的な処世訓を与え、それを行動規範にさせるために描くものであり、そうであるからには取るに足らない人物を描いても仕方がない、というものである。殊に過去の聖人や賢人が登場する歴史故事ほど、観る者にとって戒めとなる画題はない。それは石刻画像においても同様であり、ここに儒教図像のひとつの機能を見出すことは易いであろう。墓域の入口にある石闕は、誰もが容易に目にすることが可能である。そこで人口に膾炙していた歴史故事の

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