―274―(注7)。これは、後漢時代の官吏登用制度である孝廉制を背景とした現実的利用方法図像を見上げ、忠孝や仁義を貫いた先人の物語を想い、それを処世訓として自らの行動規範としていたことが想定されよう。また、いまひとつの儒教図像の機能としては、石闕の造営者みずからによる「孝子」としての対外的・政治的アピールに用いられていた点がこれまでに指摘されているである。孝廉制とは、在野無官の人士や郡県の下級官吏を対象とし、儒教的教養と徳を備えている人物を、州刺史や郡太守といった地方長官が推挙し、中央政府に派遣する選挙制度である。孝廉制は前漢時代に始まり、後漢時代にピークを迎え、後漢王朝の終焉とともに廃止された(注8)。各地の豪族やその子弟にとっては、孝廉に推挙されることが中央政界における出世の第一歩であった。そのためには、自らの孝心を対外的にアピールする必要があり、その最たる手段が、亡き父母のために大規模な墳墓を造営することであった。富財を傾けるほどの墳墓の造営は、建前としては父母や先祖に対する孝心のあらわれであるが、実際には己や一族の出世という現実的目的を伴った行為でもあったのである。その過程において、孝子を自認する造営者にとっては、観る者に自らの孝心や仁徳を連想させる図を描くことが必要となる。墓葬美術に見出される儒教図像は、過去の聖賢に比肩するほどの徳行を対外的にアピールする役割を果たしていたのである。当時の政治背景も考慮したこのような見地に立つならば、石闕上に儒教図像があらわされた理由も、ここであらためて首肯させられるのである。三 高頤闕にみる儒教図像の表現方法前章までの検討により、「仙境へと連なるイメージをもつ図像」と「歴史故事を題材とした儒教図像」は、個々にみていくと、両者ともに石闕上にあらわされた理由は極めて明解であることが確認された。特に歴史故事を題材とした儒教図像は、勧戒画としての役割のほかに、孝子としての対外的自己アピールという、また別の現実的役割が期待されたものだったのである。もっとも、異なる思想背景をもつ両者の図像をともにあらわす例は、ひとり四川漢代石闕に限って認められるものではないが、ここで注目されるのは、四川地域の石闕に見出される特異な重層的図像表現である。前章でみたように、高頤闕西闕の北面楼観部には、九尾狐や三足烏といった西王母の眷属とともに、儒教的な歴史故事を画題とした「周公輔成王図」があらわされていた〔図3、4〕。この図における成王には、他地域の画像石にみる成王とは異なる図
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