鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―275―像表現が認められるのである。〔図8〕は比較のために示した山東省宋山小石祠の作例である。この二点は、同じ故事の同じ場面をあらわしたものである。ところが、高頤闕の図中おいては、中央で傘をさしかけられる幼い成王を、肩から羽翼を生やす神仙としての表現によって描くことにより、周公の仕えるその場が、現実の地上世界ならぬ仙境であることを示しているのである。こうした他地域との図像表現の相違は、石闕の造営者の意図、すなわち、図像に託された役割を検討するうえで、ひとつの手がかりともなろう。漢代におけるこのような羽翼の表現は、神仙を描く際に用いられた定型表現である。これは、人界を離れ仙境へと到る資格を示す、一つの標幟に他ならない。このような神仙としての羽人表現は、同じ高頤闕西闕の南面、楼観部最上段の半開門図にも見受けられる。半開の扉から半身を覗かせる双髻の神仙は、成王と同じく肩から羽翼が生え、裳裾は翻る姿であらわされていた〔図6〕。また、四川省蘆山県沫東鎮出土の王暉石棺にみる人物像は、後漢時代末の四川地域における神仙表現の典型をなすものである〔図9〕。この石棺は、棺頭に刻された銘文により建安17年(212)に制作されたことが判明しており、建安14年(209)に造営された高頤闕とほぼ同時期の石刻作品である。半開の扉に片手をかけ半身を覗かせるこの神仙も、やはり双髻の羽人表現によってあらわされ、その裳裾は翻っている。これら同時代の諸作例にみる図像表現を参照するならば、高頤闕における周公輔成王図は、すでに単なる儒教的範疇を脱していることが想定され、「仙境へと連なるイメージ」をも付加された、儒教的かつ神仙的なダブルイメージをもつ特異な図像として捉え直していく必要があろう。先述の『後漢書』陽球伝でみたように、儒教的な題材を図像としてあらわすことは、本来は現世に向けた勧戒的作用を期待したものである。そして実際にその役割を果たしてきたに違いないが、四川地域の石闕においては、本来の勧戒的機能や性格と同時に、あるいはそれ以上に、仙境へと連なるイメージをも付加されたうえで図像化されていると考えられるのである。では、石闕の造営者によって、そうしたダブルイメージをもつ図像に託された役割、意図とは、一体どのようなものだったのであろうか。これに類する例として、ここでは孝子として名高い董永の歴史故事を取り上げ、それをもとに石闕造営者の意図の抽出を試みたい。まず、『捜神記』巻1に収録される董永の説話を確認する。漢の董永は、千乗の人なり。少くして偏孤にして、父と居り。力を田畝に肆くし、鹿車もて載せて自らは隨ふ。父亡ずるに、以て葬る無く、乃ち自ら売りて奴と為り、以て喪事に供す。主人其の賢なるを知り、銭一万を与へ、之を遣る。永

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