―276―は三年の喪を行ひ畢はり、主人に還りて、其の奴の職を供せんと欲す。道に一婦人に逢ひて曰はく、「願はくは、汝の妻とならん」と。遂に之と倶にす。主人、永に謂ひて曰はく、「銭を以て君に与ふ」と。永曰はく「君の恵を蒙り、父の喪を収蔵す。永は小人なりと雖も、必ず勤めに服し力を致し、以て厚徳に報いんと欲す」と。主曰はく「婦人、何をか能くす」と。永曰はく「能く織る」と。主曰はく「必ず爾れば、但だ君の婦をして我が為にV百疋を織らしめよ」と。是に於いて永の妻、主人の家の為に織り、十日にして畢はる。女は門を出でて、永に謂ひて曰はく「我は、天の織女なり。君の至孝に縁り、天帝、我をして君の償債を助けしむるのみ」と。語り畢はり、空を凌ぎて去り、在る所を知らず。董永は、早くに母を亡くし、農作業に出る時は、いつも父親を車に乗せてそばを離れず、孝養を尽くした孝行息子であった。父が死ぬと葬儀の費用がないため、自分が奴隷となる条件で借金をする。しかし、天帝から遣わされた天の織女が董永の妻となり、自由の身となる約束の絹千疋を十日で織り上げたため、董永は解放されることになった。以上がこの説話の大意であるが、この説話において注目されるのは、天から遣わされた織女が、董永との別れに際して述べた内容である(傍線部参照)。すなわち、現世における董永の孝養は天に通じ、その恩恵として天から織女が遣わされた、というのである(注9)。この点を念頭に置き、ここで実作品に立ち返りたい。この董永の歴史故事は、四川省渠県蒲家湾に現存する無銘闕に図像としてあらわされている〔図10〕。画面中央に董永と一輪車で憩う董永の父親をあらわすが、その左右に嘉禾と霊樹を配置している点が注目される〔図11、12〕。嘉禾は穂を実らせ頭をたれる立派な稲を指し、漢代には、天より人間世界に与えられる恩恵が、かたちを伴って地上に現出した祥瑞の一種とみなされていた。つまり、蒲家湾無銘闕にみるこの図像は、単純に孝行譚そのものを図像化したものではなく、董永の孝養が天によって嘉され、その恩恵として地上に嘉禾がもたらされた場面、すなわち「天からの反応」にその主眼が置かれていると考えられる。漢代における祥瑞は、儒教的な徳目である忠孝の実践に対する、天からの反応、恩恵であった。とするならば、董永を代表とする孝子たちは、天の意思に通じて、祥瑞という奇跡を起こし得た人物であり、嘉禾のような祥瑞を通して、現実の人間世界と天上世界とを結ぶ、極めて特異な役割を担っていたのではなかろうか。先述のように、一族のために大規模な墳墓を造営し石闕を建てる、という行為は、それ自体が孝の実践に他ならない。そして造営者たちが、その行為を通して孝廉に推挙され、中央政界
元のページ ../index.html#286