―287―いる。これは一枚一枚の絵から、文化、慣習の差を越えて、日々の暮らしの営みの重要性を見出していると言えよう。このように浮世絵について、異文化である日本の暮らしへの興味や、また、芸術家らに引用をさせるほどの影響の強さに対する関心ばかりではなく、生き生きと人間を描いたことを賞賛する記事までもが掲載されていたのだった。つまり、「うきよ(=浮き世、憂き世)」を描くという浮世絵の本質も見出されていたとみなすことが可能であろう。この背景には、急速に産業が発達し、機械化が進んでいた、当時のアメリカの社会状況があったことが推し量られる。人間の生活感覚や尊厳が失われていく、そのような危機感や飢餓感から、日本の浮世絵が描くもののかけがえのなさが理解されたのかもしれない。3.浮世絵と新版画それでは、このような米国における浮世絵への注目は、わが国に対しどのような影響を与えたのだろうか。特に、大正から昭和にかけて浮世絵の復興運動の一つとして盛り上がりをみせた新版画との関連はどうであったのだろうか、検討してみたい。1896年のニューヨークの浮世絵展の翌年、日本でも初の本格浮世絵展「浮世絵歴史展覧会」が東京上野の日本美術協会で、浮世絵商の小林文七によって開催された。小林はニューヨークに在住し、ニューヨーク展を実際に見たのではないかと推定されており、歴史的に順を追って陳列される内容や構成は、その影響を受けたものとも考えられる。米国向けに浮世絵の輸出を行っていた、小林文七商店の社員の一人として修行を積んでいたのが、渡辺庄三郎だった。彼は、やがて古い錦絵を売るのではなく新しい版画を作って売ろうと独立し、のちに新版画運動を提唱したのだった。また、ボストンに店を構え、フェノロサやモースと親しく、米国中に浮世絵を売りさばいた日本人に松木文恭がいたが(注7)、彼の弟・松木喜八郎はボストンから帰国後、のちに渡辺とともに版画店の尚美堂を東京で営んだのだった。さらに松木文恭と新版画の版画家としても知られる吉田博は姻戚関係にあり、吉田は1899年に渡米しボストンやワシントンDCで洋画の展示販売や講演を行った(注8)。彼は当然日本の浮世絵の人気を肌で感じ、その経験はのちの新版画制作へ携わる要因となったことであろうし、渡辺と吉田を引き合わせたのは、松木喜八郎と言われる。このような人のつながりから見ても、新版画の誕生から興隆の経緯には、米国における浮世絵ブームと決して切り離すことはできないだろう。新版画が米国で熱狂的に受け入れられるようになったのは、1930年と1936年のオハ
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