鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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米国における浮世絵コレクターについては、Julia Meech “The Early Years of Japanese Print注アメリカにおけるジャポニスムを論じたものに、児玉実英『アメリカのジャポニズム―美術・工芸を超えた日本志向』(中公新書1262)(中央公論社、1995年)や、『アメリカのジャポニスム展―青い目の浮世絵師たち』(世田谷美術館、1990年)などがある。―288―(“Ancient Methods Are Also Evident in Contemporary Work in Nippon”)と書かれている。イオ州トレド美術館での現代日本版画展が契機となったと報告がある(注9)。新聞でも1930年以降になると各地での開催の報道が散見され、大きく写真入りのものもある〔図2〕。1930年1月からのニューヨークでの展示会は、ニューヨーク・タイムズに2週にわたって報道がなされているほどで、記者を含め人びとに衝撃をもって受け入れられた可能性が考えられる(1930年1月26日、2月9日付)。記事では、新版画の作家らは間違いなく西洋社会に志向を向けてはいるものの、民族の伝統を忠実に残しているとしている。米国議会図書館での浮世絵展での記事(1935年1月21日付ワシントン・ポスト)でも表題に、古来の方法が日本の現代制作にも影響を与えているこのような見出しや記事の表現には、浮世絵の伝統が生き続けていることに対する驚きと、さらには西洋化が進みつつも伝統を重んじる日本人や日本社会への理解の一端として版画を眺める、米国側の視点があったと推察されるのである。日本における伝統と西洋化の解明を進めるべく、しばしば新版画の川瀬巴水の作品は、広重と比較検証されたのであった。おわりにこれまで述べてきたとおり、米国東海岸では世界中のどの地域よりも、広く大きな日本版画の受容があり、さまざまに検討されながら作品を通して日本の理解が行われた。だが、1941年12月の開戦をもって、それは途絶えてしまう。新聞には「“日本”の表示はタブー」という見出しが載り、フリア美術館の展示室が閉じたことを報じている(1941年12月11日付ワシントン・ポスト)。その再開は戦争の終結を待たなければならず、しかも戦前のような状況の盛り返しはなかった。本稿では、新聞調査の成果を報告したが、美術雑誌、展覧会カタログ、売立目録などの情報の集積も行う必要がある。これらの事象の掘り起こしによって浮世絵の「動き」を追うことができ、作品がどのように理解されてきたかを知る手がかりとなる。さらには、版画を通した日本理解の解明を進めることが可能となり、今後作品研究だけではなく、このような分野への視点も重視されるべきであろうと考える。

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