イヴ・タンギーにおけるジョルジョ・デ・キリコの影響に関する研究―293――無意味という観点から―研 究 者:早稲田大学大学院 文学研究科 博士後期課程 長 尾 天シュルレアリスムの画家イヴ・タンギー(1900−1955)は、茫漠たる空間に蠢く不定形物体群を生涯描き続けた〔図1〕。稿者はこうしたタンギーのイメージの特徴を、言語から徹底的に逃れようとする性質として記述したことがある(注1)。タンギーの描く不定形物体群は、決して名指すことができない。つまり、それらを「〜のようだ」ということはできるが、「〜である」ということは決してできない。ではタンギーのイメージのこのような性質の起源はどこにあるのだろうか。想定される起源の一つは、ジョルジョ・デ・キリコ(1888−1978)の形而上絵画である〔図2〕。タンギーが画家を志したのは、デ・キリコの作品を偶然目にすることによってであり、タンギーのイメージにおける劇場的な三次元空間やはっきりとした影などがデ・キリコに由来することは明らかである(注2)。とすれば、タンギーにおける言語の徹底的排除という性質もまたデ・キリコに由来するのではないか。仮説は次のようなものである。デ・キリコのイメージは基本的に名指すことができる。デ・キリコが描く彫像、汽車、マネキン等々が、このように名指されたものであることは確かであり、その点ではタンギーのイメージと異なっている。だが、これらのモチーフは意味を失っている。つまり、伝統的象徴が持つような交換されるべき言語との確固たる関係性をこれらは持たない。この意味で、デ・キリコにおいてイメージと言語の遊離は既に決定的なものとなっている。タンギーは、このイメージと言語の遊離を極限化したのではないか。この仮説を展開するためには、デ・キリコのイメージが意味を失っているということ、厳密にいえば、デ・キリコが自らのイメージをそのようなものとみなしていたことを示さなければならない。そこで注目したいのは、デ・キリコがニーチェの影響下に、自身の形而上絵画を「無意味」の絵画化として理論づけている事実である。デ・キリコのいう「無意味」の絵画化とは何を意味するのか。それはイメージと言語の遊離をもたらすものなのか。以上が本研究の課題である。ところで稿者は、デ・キリコとタンギーを軸としてシュルレアリスムの視覚イメージの問題を記述する機会を既に得た(注3)。そこで上述の仮説に対する一つの見通しを示している。故に重複を避けるため、以下ではデ・キリコに焦点を絞りたい。ま序
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