鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―297―この考えを最も恐ろしい形で想像しよう。あるがままの存在、意味[signification]もなく、目的もないが、それでも不可避的に休みなく回帰し、無[néant]へと解決することもない。つまり「永遠回帰」。これこそニヒリズムの極限形。永遠の無(「無意味」)!」(注17)。ニーチェにおいて、唯一真なる意味など存在しないという意味において、世界のありのままの姿は無意味である。だが人間はそれに耐えることができない。そこで禁欲的理想が一つの意味を与える。つまり、形而上学や宗教が、世界の背後に「真の世界」を仮構する。こうして世界は、想像上の「真(神)の世界」によって根拠づけられることになる。とはいえ「真の世界」を追求する限り、形而上学は結局、自らを真ならざるものとして暴くことになる。こうして神の死が告げられ、ニヒリズムが現れる。この時崩壊するのは本来、世界に与えられた一つの解釈にすぎない。だが、人間はそれを唯一の意味と取り違えていたため、全てが崩壊したものと考えてしまう。ニーチェはここで、無意味を別の何らかの意味によって再び隠微するという選択はしない。上記の引用において、むしろニーチェはニヒリズムを極限化させることで自身の思想の核心である永遠回帰の認識を導き出している。そして、この永遠の無意味を肯定することによって、ニーチェは人間を超人へと差し向けようとするのである。逆にいえば、ニーチェにとって無意味の前に諦観するという選択はありえない。『ツァラトゥストラはこう語った』(1883−85年、仏訳1898年)第1部、「徳の講座」の一節。ツァラトゥストラは、ある賢者が徳について語るのを聞く。「彼の英知は告げる、眠るために目覚めていよと。そして実際、もし生が意味を持たず、私が一つの無意味を選ばなければならないとするなら、この無意味は私の選択に最も値すると思われるだろう(……)(……)だが彼らの時は過ぎ去ってしまった」(注18)。眠るために目覚めていよ、つまり、目覚めの否定のために目覚めていよという賢者の教えは、ショーペンハウアーの「意志の否定」による救済論理を想起させる。ショーペンハウアーにおいて世界の内的本質は「生への盲目の意志」であり、意志は究極的な目的も意味も持たない。故に人間はこの意志の否定、つまり欲望の否定によってしか平穏を得ることはできない。つまり、生の否定のために生きよとショーペンハウアーは説く。

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