―298―結「真の世界」を仮構し、禁欲的理想によって世界に一つの意味(解釈)を与える。こニーチェはショーペンハウアーに大きな影響を受けたが、生を衰弱させる禁欲的理想としてのショーペンハウアー思想を退け、生への意志の否定とは逆に、力への意志の肯定を説く。だが、どちらにしても前提となるのは生が無意味であるという認識である。ショーペンハウアーとニーチェが初めて生の「無意味」の深遠な価値を示したというデ・キリコの言葉は、まずはこうした意味で理解できる。そして無意味な世界、つまり「真なる世界」という唯一の(と思われた)意味が失われた世界は、だからこそ同時に無限の解釈に開かれている。『悦ばしき知識』(1882−87年、仏訳1901年)第5書374節。......「我々の新しい..「無限」。―存在の遠近法的性質はどこまで及ぶのか、あるいまた、存在はもっと別の性質を有するのか、解釈も「理」[raison]も欠いた存在は「没理」.......釈を含んでいるという可能性を否定できない限りにおいて」(注19)。ニーチェの原テクストでは、raisonはSinn、déraisonはUnsinnである。つまり、後者の本来の意味合いは「無意味」と変わらない(ちなみに、当時のイタリア語訳はnonsensoとしている)(注20)。世界が「没理」であるか、もしくは遠近法的にどこまでも解釈されうるのかを決定することはできない。そうした決定自体が、人間による遠近法的解釈だからである。解釈を行う人間にとって、世界はそのつど無意味でなくなるとしても、それがどこまでも解釈であるという点で、世界はやはり無意味でしかない。無意味と無限は、無意味と永遠回帰とがそうであるように、表裏一体である。だからこそデ・キリコのいうように、未だ仮構された「真の世界」を持たない先史時代は、予兆、つまり解釈の可能性に満ちていたのであり、それは同時に宇宙の「無意味」の証たりえるのである。以上、デ・キリコのいう「無意味」の語の典拠をニーチェの仏語訳に探った。ニーチェにとって、ありのままの世界は無意味である。形而上学や宗教は、世界の背後にれらが自壊するとき世界の無意味が再び露わになり、同時に世界は無限の解釈の可能性をはらんだものとなる。...[déraison]となってしまわないか、一方、全ての存在は本質的に解釈的ではないか....(……)それどころか、世界は我々にとって再び「無限」となった。世界が無限の解
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