鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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アートとドキュメンタリーの交叉―302――『ファー・イースト』の写真再考―研 究 者:明治大学大学院 理工学研究科 准教授  倉 石 信 乃はじめに1870−78年(明治3−11)、ジョン・レディ・ブラックの編集・発行した写真新聞/写真雑誌『ファー・イースト』は、日本の近代化の足跡をたどる上での第一級の映像史料である。明確な日付を備え、明治初年に起こった数々の重要な事件・出来事が可視的なエヴィデンスとして録される本誌は、写真のドキュメンタリー的と呼びうる価値を有するものと見なされてきた。近年幕末・明治期の写真に関する研究が、特に英語圏の写真史家によって発展を遂げ、『ファー・イースト』の理解も進んできている写真」への郷愁とエキゾティシズムに彩られた関心の水準を、シリアスな文化研究のベースを構築するまでに引き上げつつある。しかし作者性の過度な探究は、日本写真の黎明期における写真文化の実相をしばしば見誤らせる。量的な提示と流通を旨とする19世紀的写真「作品」は、ロザリンド・クラウスがウジェーヌ・アジェについて指摘したように、「彼自身はその考案に何ら関与せず、そして「作者」という言葉が無関係である目録の「函数」」と見るべき側面をもつからだ(注2)。署名の不在は、制作者/鑑賞者がそれを必要としていなかった証左であり、写真がいわば透明な窓越しに眺めるべき、迫真力をもった「物語」として機能した事績を裏付けるものなのだ(注3)。近年の写真史的成果と写真史批判をともに踏まえながら、本論では、『ファー・イースト』編集・発行の責任者であったブラックが主導して、写真家と作り上げようとした「アートとしての写真」というコンセプトを考察する。他方、初期『ファー・イースト』に散見されるドキュメンタリー的価値の高い、特に社会的マイノリティを捉えた写真の意味を、貧困に取材した19世紀後半のイギリス写真の作例を参照しつつ探りたい。『ファー・イースト』に関する史実について一つ指摘しておきたい。1870年5月30日号を創刊号とする同誌は、1875年8月31日号(7巻2号)で中断するとの記述が従前よりなされてきた。しかし実際は少なくとも1875年10月号(7巻4号)まで刊行された(横浜美術館では同誌は1875年9月30日号(7巻3号)を所蔵)(注4)〔図1〕。ブラックは上海に移動し「ニュー・シリーズ」を1876年7月号より月刊で発行、1878(注1)。そうした努力は写真のアトリビューションと作者性の確立に傾注され、「古

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