年12月号まで継続した。新旧のシリーズを通じて、約20人の写真家、計760点余りの写真が、実際の印画紙を誌面に直接貼付する形で収録された。―303―1「アーティスト」としての写真家『ファー・イースト』を飾る写真を撮影した多数の写真家の中でも、「スタッフの写真家」に同定されるのは、オーストリア人写真家のミヒャエル・モーザーである。1868年ティーンエイジャーの頃からオーストリア=ハンガリー帝国の東アジア遠征に随行して、翌年そのまま日本に定住したモーザーにとって、ブラックは「親代わり」として物心両面からの庇護者であったと見られる。促成的に技術習得が可能な写真のことであるなら、若きモーザーの経験不足は必ずしも彼の作者性を否定する根拠とはならないが、ブラックの強力な編集方針が写真の美学的質と資料的意味を伝達するために、より大きく貢献したのは疑いない。イギリスの写真史家テリー・ベネットが周到に跡づけたように、モーザーが手がけた確率の高い画像は、ブラックと想定しうる記者、もしくはブラックの強い編集意図を汲んで書いた他の記者(以下、「ブラック/記者」と略記)が誌面で「我々のアーティスト」と記載している場合である。この呼称は1870年7月16日号から始まり、モーザーがウィーン万国博覧会の日本使節の通訳となったため『ファー・イースト』の仕事を離れる1873年2月まで有効であった。しかし例えば、1871年12月16日号では、この号すべての写真が「我々のアーティスト」によって撮影されたとの記載があるにもかかわらず、その内の一枚が、モーザーが師事したヴィルヘルム・ブルガー撮影によると判明している。またブラック自身が写真を撮り、相当数のイメージが雑誌に含まれるとも想定できる以上、作者性の揺らぎは紛うことないものである。私が注意したいのは「署名の不在」という一般的要件にも関わらず、ブラック/記者があえてしばしば記載する「われわれのアーティスト」という呼称そのものに何が込められているか、である。そこに複数的な作者性の協働によって成立する、「ファー・イーストの写真」を貫く固有の美学的・政治的なコンセプトを汲み取らなければならない。従って、ブラック/記者が写真家を含む日本のアートとアーティストに言及した、1871年11月1日号の記事は注目に値する。記者は、最小限の色彩と、闊達な線描と筆触を備えた軸装の絵画を高く評価する一方、遠近法の概念と明暗法をほとんど欠いているために、正確な風景画や肖像画の描写を見出すことができないと述べる。そして同時に日本人の制作する写真についても、次のように続けている。
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