鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―304―写真のアートは彼らに高く評価されており、帝国内のあらゆる大都市で写真のアートを習得し専門的に実践する者は、相当数にのぼる。江戸と大阪では多くの写真家が活動し、そのうちの何人かは本当に巧みな技術者である。だが被写体に「ポーズ」をとらせようと少しでも工夫したり、風景撮影にあたって最良のポジションを選択しようとする者はめったにいない。彼らは前景と遠景の効果について思いも至らず、彼らのしていることといえば、うまくいこうがいくまいがお構いなしに、それを手にしているという理由で、ただひたすら機材と感剤を機械的な手順にしたがってあつかうことだけだ。・・・こうした輩をアーティストと呼ぶことはできない。彼らはたんなる機械工なのだ。ここでブラックは、先行する芸術形式たる絵画のアナロジーを写真に適用している。それでは、未だ芸術表現を達成できず、機械的な作業に終始している日本人写真家の作例に比べ、同時代の日本を写したいかなる写真が好ましいのか。その一つは、横浜本町通り71番に写真館を構えてほどないオーストリア出身のライムント・フォン・シュティルフリートの写真にほかならない(注5)。ブラック/記者は1871年10月16日号で、写真館を訪問してアルバムを見た際の印象を次のように記している。多くの写真は格別に素晴らしい。視点が巧みに趣味良く選択されている。被写体は決してありきたりのものではない。古いスタンダード―鎌倉とか芝の増上寺やそれと同様のお馴染みのテーマが当然のことながらアルバムには含まれるが、この国の歴史について知識を持つ人にとっても充分に興味深いものになっているからだ。すべての景観がみな美点をもっているというのはお世辞ではない。シュティルフリートの風俗写真については触れられていないが、その余分な背景を整理しつつなされる、的確な構図の設計、緻密な人物描写〔図2〕もまた、ブラックの美意識にかなうものであったと想像される。実際、『ファー・イースト』は創刊以来の隔週刊を止めて月刊化された1873年7月10日号(4巻1号)から原則的に、写真は文字頁とは分かれて独立して掲載され、しかも1頁に1点かつ概ね5×7インチのサイズで収録された。誌面刷新の理由としてブラック/記者は、バックナンバーを揃えて雑誌を製本・保管したいと考える購読者が存外に多かったことを挙げている。このことはまた、当初顕著だった時事的な報道性が後退し、歴史や文学、読み物の連載

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