―305―にシフトした経緯に重なっていく。かくして写真の美観が強化され、人間の表象についても、ストリートでの偶発的なスナップショット的感覚をもった写真が著しく減少しつつ、次第にスタジオ撮影によるスタティックな肖像が優勢を占めていく。上海に発行拠点を移した1876年7月に始まる「ニュー・シリーズ」の序においてブラック/記者は、過去の『ファー・イースト』の写真に質的なばらつきがかなり散見されることを反省する。ブラックは元々コピー・プリントやコピー・ネガの使用を忌避してオリジナルの質を重視する編集者であり、ついに豊富な写真のストックを活用して、プリント販売に着手する。もはや「ニュー・シリーズ」はそのための商品見本の役割を果たすか、それ自体としてすでに土産用の「写真アルバム」としての機能をも具備したのであろう。2 マイノリティの表象しかしながら卓越したジャーナリストであり、自らも写真を撮ったブラックは、とりわけ初期段階には、写真の誘引力の源泉に生々しい現実との邂逅があることを熟知していた。しかもブラックが死の直前まで取り組んだ回想録『ヤング・ジャパン』がつまびらかにするように、彼の居住した日本は幕末明治の激動期であった(注6)。特に旧秩序が急速に姿を消し暴力的な勢いによって「御一新」の体制が整えられていく過程では、社会的な矛盾がくっきりと浮上する。写真的ドキュメンタリーの強度というべきものは、むしろ主たる事象の片隅に不可避に置き捨てられた、あるマイナーな存在への鋭敏かつ好奇に満ちた着目において発現する。そのことは『ファー・イースト』の、比較的初期写真を通観するときにも、鮮明に理解されるのだ。1871年(明治4)8月、明治政府は太政官布告として「解放令」を出し、穢多・非人をめぐる従来の制度を廃止し、身分・職業を他と同様の平民とした(注7)。これに呼応するイメージが、翌年1872年8月16日号に掲載される〔図3〕。解説には「穢多。土着の日本人の履く「下駄」という木製の靴を作る職人、むしろその修理を営む者。彼は最下層の階級に属しており、彼らの職業身分にまつわる禁令は政府によって撤廃されたが、依然として他の庶民に受け入れられるのは極めて困難である」と記される。同年10月16日号において、明治天皇も乗車した新橋・横浜間の鉄道開通を全頁特集した事績は、『ファー・イースト』の出版歴にとって一つのハイライトだろう。だが「解放令」の前後に、日本的なアウトカーストの実相に迫ったこともまた、ブラックのジャーナリスティックな冴えた感覚の発露といえる。マイノリティへの直截的な写真的アプローチは他に、1871年だけをとっても角兵衛
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