―307―ン・ゴシック」の啓蒙的かつオリエンタリズム的な転移形態としての都市表象を手がけた写真家が、1870−71年中国・福州の貧民街と郊外にうごめく犯罪者、乞食、病者を活写したジョン・トムソンである(注9)。包括的な中国探検を貧富・聖俗の振幅のうちにピクトリアルに記録したトムソンにとって、福州の写真は彼の写真アーカイヴの中でも最暗部を形成した。トムソンからの強い影響が指摘されるブラックもまた、より荒削りな見方であれ、「アーバン・ゴシック」的空間を明治初年の日本に見出している(注10)。「御一新」の光輝に隠れた影の内実が、ラフな感覚の息づくスナップショットや簡素なセットアップの形式で、アウトカーストに属する人びとや、子供と大人の浮浪者によって象られていった。それらはバックナンバー全体の中で、直視せざるをえないある亀裂、陥没点を成す画像だ。ブラックはそうしたテーマを明確なジャーナリスティックな使命に駆られて掲載する一方、そうすることが誌面に「芸術的」な価値をもたらすこともわきまえていたはずである。ミヒャエル・モーザーが雑誌を離れると、1873年7月1日号からは職能や文化的慣習を、複数の登場人物の交錯する疑似演劇的な場面の設えによって記録した一連の「活人画」的写真が、断続的に1年余りにわたって掲載される(注11)。「写場シリーズ」(注12)と呼ばれたこの連作は、横浜に写真館を開設して間もない初代鈴木真一の撮影と推定される(注13)。この連作にも社会的階層秩序のマージンに位置する非定住民あるいは遊行者たち、すなわち猿廻し(注14)〔図5〕、大道芸人〔図6〕、飛脚、易者などが写し込まれた。彼らは決まって住居の縁側らしき空間に訪問者として闖入する(注15)。彼らもまた「解放令」によってかえって既得権益を剥奪され、差別意識の根強く残存する新しい世間で生き延びるのが難しいアウトカーストであれば、近代化の進展において、急速に姿を消していくことになろう。虚構が演じられている写真だが、必ずしもドキュメンタリー性が退却してしまったわけではない。その舞台設定の素朴さ・不完全さの中にすでに、ある特定の職能・階層が擬態として演じられることへの無意識の自己言及を含んでいるため、空間や演技の仮設性それ自体がドキュメントとして読まれうるからだ。おわりに『ファー・イースト』という「公器」を舞台とする、マイノリティを捉えたドキュメンタリー写真の断続的な展開は、1872年(明治5)の明治天皇の西国巡幸、さらには同じ頃初めて撮影された天皇の肖像をめぐる開示/隠蔽の儀式とは、際だった対照
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