奈良仏師と京都仏師―322――細部形式の検討に基づく平安時代末期から鎌倉時代初期の作品研究―研 究 者:東京藝術大学大学院 美術研究科 博士後期課程 佐々木 あすか平安時代末期から鎌倉時代初期、特に12世紀後半から13世紀初めの彫刻史は、平安時代後期のいわゆる定朝様から鎌倉新様式へと変化する時期にあたり、仏師系統によって作風が異なり、ある一定の作風展開として語ることのできない多様性を持つ。この期の彫刻史を理解するために、仏師系統や仏師個人を判別し得る指標が必要と考える。仏像の細部形式は、そうした指標の一つとなり得ると思われ、本稿では天冠台の形式について検討を行った。11世紀後半から12世紀後半までの天冠台意匠の変遷については、すでに武笠朗氏による研究がある。天冠台の構成要素のうち、上縁が外側に反った無文の帯状部「無文帯」が慶派仏師の作例に特徴的であることが指摘されている(注1)。今回は、主に11世紀後半から13世紀半ばまでの天冠台形式を検討し、平安時代後期との対比を含めて、運慶と運慶より一世代下る時代までの変遷を明らかにすることを目的とする。また、従来述べられてきた菩薩形像だけではなく、新たに四天王像、二天像などを中心とする神将像の天冠台を検討対象に加えた。対象作例は、年代や作者のわかる基準作を中心とし、検討を行った。本稿では天冠台の意匠の基本構成のほか、直線か弧を連ねた形かなどといった天冠台全体の形態や、構成要素のうち花形の細部にも注目し、各項において時代の傾向や仏師系統を判別し得る特徴を抽出することを試みる。写真資料の収集や実見により検討を行った結果、以下の3点を指摘することができた。第1に、12世紀後半から1210年代までの奈良仏師作例において、菩薩形像と神将像で異なる意匠構成が用いられ、その変遷の中で見ると、奈良・興福寺南円堂四天王像の天冠台形式が特異であることが浮き彫りとなった。第2に、1220年代以降、菩薩形像においてこれまでの構成要素の数が減り、特に花形の使用例が減る。その変化は、髪束を天冠台にからませ、飾りに通す形式の採用と密接に関係すると思われる。第3に、1210年代までは、菩薩形像の天冠台は直線で表すのが一般的であり、神将像にのみ屈曲する形式、弧を連ねる形式(「連弧形」と呼ぶ)が用いられた。1220年代に入り、連弧形の形式が菩薩形像に多く現れる。この形式は、天平後期から平安初期の彫刻のほか、日本の仏画や宋代彫刻とも共通するものであることが指摘できる。以下、この点を中心に、12世紀後半から13世紀半ばの天冠台形式について述べる。
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