鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―324―岡・願成就院毘沙門天像〔図7〕、文治5年、浄楽寺毘沙門天像〔図8〕などが早い例である。このほか、治承2年(1178)記の木札を納入する奈良・東大寺持国天像や、文治5年、康慶作の奈良・興福寺中金堂四天王のうち増長天像(残りの3像は兜をつける)〔図9〕の2例にのみ、〔紐2条・列弁〕が現在のところ確認できる。次に、全体の形態に注目すると、奈良仏師の作例では、耳上より前頭部にむかってゆるやかに上がる例(願成就院、浄楽寺像や、納入品より建久〔1190〜99〕または建仁年間〔1201〜04〕の作とされる快慶作の金剛峯寺四天王のうち持国天〔図10〕、増長天像)が多く、菩薩形像と同様に直線の例は、東大寺像と、中金堂増長天像(ただし右側面のみわずかに前上がりとなる)以外には管見の限り見られない。ここで、平安時代後期、11世紀後半から12世紀にかけての神将像の天冠台形式を取りあげる。基本構成については、年代の分かるものでは、永長2年(1097)、兵庫・大乗寺四天王のうち多聞天像(ただし後頭部後補)〔図11〕を初例とする〔紐・連珠・紐・列弁〕や、永治2年(康治元年、1142)、滋賀・金軆寺持国天、増長天像〔図12〕を初例とする〔紐2条・列弁〕、年代が下るが、寿永3年(1184)の徳島・雲辺寺毘沙門天像〔図13〕の〔紐・連珠・紐・花形〕などが挙げられる(注7)。以上のような院政期の作例と奈良仏師の作例を比較すると、奈良仏師作例の方がより簡素な構成と言えるだろう。また、天冠台の形態については直線のものが多いが、金軆寺持国天像など、側面において耳上で屈曲し、明確な角度で前頭部へむかって上がるものも認められる。応保2年(1162)頃の東京国立博物館毘沙門天像の天冠台の位置に彫出された溝も、耳上で屈曲して表される。こうした例は、平等院雲中供養菩薩のうち南20号像を除く菩薩形像の形態が直線であるのに対し、神将像に特有の形態と言える。こうした院政期の特徴と比較すると、12世紀後半の奈良仏師作例に多い前上がりの形式が、院政期の作例にほとんど見られないことも注目される(注8)。こうした中、快慶作の金剛峯寺広目天〔図14〕、多聞天像〔図15〕において、耳上で屈曲し、明瞭な角度をもって立ち上がる例が再び現れる。耳上で屈曲する例は、院政期の神将像にも見られるため新形式と呼べるものではないが、願成就院像などに見られる前頭部へ向かってゆるやかに上がる前上がりの形式とは異なるものと言える。神将像の天冠台形式を通観した中で、特異な形式と思われる例を取りあげたい。それは、興福寺南円堂四天王像(13世紀初め)である。南円堂像は、構成要素が1体ずつ異なり、様々な意匠を用いる点に特徴がある。とりわけ構成要素の多い増長天〔図16〕と多聞天像においては、耳上の花形飾りを境に、正面と背面で意匠を変えており、これまで見てきた天冠台形式の中でも珍しい点として指摘できる(注9)。また、増

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