鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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注武笠朗「西大寺四王堂十一面観音像について」(『美術史』120)、1986年4月。武笠朗「雲中供 無文帯については、前掲注論文(西大寺四王堂)、および武笠朗「奈良仏師康助と高野山谷■11世紀後半から12世紀の天冠台形式の基本構成については、武笠氏の論考を参照されたい(前■管見の限り、京都・清水寺観音菩薩像は、ごくわずかだがゆるやかに上がる例である。■この花形の隙間については、別稿で述べる予定である。■麻木脩平「長講堂阿弥陀三尊像考―両脇侍菩薩像の片足踏み下げ形式を中心として―」(『仏教■また、岩手・中尊寺金色堂中央壇安置の持国天像の〔紐・連珠・紐・列弁・花形〕や、増長天像の〔紐2条・列弁・花形〕など、菩薩形像と変わらない例もまま見られる。院政期の神将像の基準作は少なく、各形式の展開を跡付けるまでに至らなかった。各形式の成立時期についても、引き続き検討を行いたい。■京都・浄瑠璃寺四天王のうち増長天像は、〔紐2条〕で前上がりの形式と見られる。増長天像の基本構成は、正面では〔紐・連珠・紐・雲頭形〕とし、背面では〔紐・無文帯・紐・列弁〕とする。多聞天像は、正面は〔紐(下縁、細かい連弧形)・無文帯・紐・先端を巻いた二山形〕とし、背面は〔無文帯(下縁、連弧形)・紐・先端を巻いた二山形〕とする。藤岡穣氏は、この飾り(「唐草文で飾る意匠」と述べられている)が宋代図様からの採取形式であると想定されている(藤岡穣「興福寺南円堂四天王像と中金堂四天王像について」下〔『国華』1138〕、1990年9月)。―327―また、中国彫刻については、日本の彫像のように天冠台と宝冠とを分けないが、この宝冠の下端をめぐる帯状の部分を連弧形とするものが見られた。わずかな例ではあるものの、南宋・紹興12〜16年(1142〜46)に造顕された、重慶市・大足北山石窟(仏湾)第136号龕のうち、六臂観音菩薩像〔図28〕、普賢菩薩像、文殊菩薩像〔図29〕、観音菩薩像などに、宝冠の下縁が上向きの弧を連ねる形であることが確認できた。これを遡る可能性があるものとして、大足北山石窟(仏湾)第273号龕の千手観音菩薩像(五代、10世紀)〔図30〕などが挙げられる(注15)。以上のように、1220年代以降の菩薩形像に多く見られるようになる連弧形の天冠台について、類例を数点挙げた。それは彫刻や絵画、時代や国も様々であり、13世紀彫刻に連弧形が現れる直接の契機と成り得たものやその理由については、結論を出すことができなかった。今後も慎重に検討を進めたいと考える。今回は形式の整理にとどまり、個々の作品研究を充分に行うことができなかった。今後も引き続き天冠台形式の資料収集を進めるとともに、今回の知見をふまえたうえで個別の作品研究を行いたいと思う。養菩薩像(平等院鳳凰堂)」(『国華』1131)、1990年2月。上大日堂旧在大日如来像」(『仏教芸術』189、1990年3月)を参照。掲注論文)。芸術』212)、1994年1月。

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