―346―にサラ・パレスにて展覧会を開催している。二人展というもののピカソはわずか数点のパステル画を出品したにすぎないが、この展覧会は主催者であるモデルニズムの雑誌『ペル・イ・プロマ』において、その記事編集を担当するミケル・ウトリリョがピカソについて数頁を割いて紹介するきっかけとなったのである〔図2−1〜4〕。そこではピカソの経歴紹介の後、記事は以下のように続く。「本誌が主催するサラ・パレスでの展覧会に出品されたパステル画は、彼の才能の一面を示しているにすぎない。彼の才能は非常に議論を巻き起こしているが、しかし従来の型にはまった形式を捨て、あらゆる形式でもって芸術を追求しようとしている人々の間では少なからず評価されているのである。本号では彼のスケッチブックからの数点を掲載したが、今後掲載を予定している他のデッサンと同様にこれらはこの若い画家の視覚のすばやさを明確に伝えてくれる。またこの『ペル・イ・プロマ』誌では、彼の肖像画を掲載しているが、それは傑出した過去の芸術家たちに敬意を表すると同時に、可能な限り明日の大芸術家たるべき人々が飛躍するのを手助けしようとしているのだ。ピカソはまだ20歳にも満たないが、パリで彼につけられたあだ名さえ幸運に恵まれている。すなわち彼の外見、モンマルトルの厳しい天候にさらされた大きな広ぶち帽子の下にある自制をわきまえた南国人の生き生きとしたまなざし、そして伝説となった超印象派風のネクタイを巻きつけた首、それらは彼のフランス人の仲間に親しみある名『小さなゴヤ』を思いつかせたのだ」(注10)。2)パリにて以上のようにバルセロナにおいて周囲のモデルニスタたちから好意をもって評されていたピカソであるが、ちょうどサラ・パレスにおけるカザスとの二人展とほぼ同時期に、正確には6月25日から7月14日まで、彼はパリで初めての展覧会をギュスターヴ・コキオの企画によりアンブロワーズ・ヴォラールの画廊で行っている。この展覧会もまた同様にバスク出身の画家F・イトゥリーノと共同による二人展であり、そこにピカソは油彩画やデッサンを合わせて65点を出品している(注11)。そして、『ラ・ルヴュ・ブランシュ』誌で当時、美術批評欄「美術手帖」を担当していたフェリシアン・ファギュが、「スペインの侵略―ピカソ」と題しこの展覧会について評論をよせている。彼はそのなかでゴヤの影響をピカソに見た後で、次のように続けている。「偉大な過去の巨匠たちのほかにも、おそらくたくさんの影響をたやすく見つけることができるだろう。ドラクロワ、マネ(彼は少なからずともスペイン画家の影響を受けている)、モネ、ファン・ゴッホ、ピサロ、トゥールーズ=ロートレック、ドガ、
元のページ ../index.html#356