―347―フォラン、ロップがおそらく影響を与えている・・・・ただ、どの影響もつかの間のもので、とらえると同時に飛び去ってゆく。彼の熱中は、彼自身に個性的なひとつの様式を作り上げるのに十分な時間を許さないようにさえ見える。つまり、彼の個性はそうした熱中、若さゆえの激情的な率直さのなかにあるのだ…」(注12)。さらに1902年4月1日から約半月にわたってパリのベルト=ヴェイユ画廊で開催されたフランス人画家ルイ・ベルナール=ルメールとピカソとの二人展について、再びファギュは同誌上で記事を掲載している。その中でファギュはピカソの作品をいくつか描写した後で次のように記している。「これらすべてのスペイン人画家たち(スロアーガ、ノネイ、イトゥリーノ、ロサダなど…)は、情熱と気品、そして際立った個性を持ち合わせている。各自が個性的な、非常に個性的な領分を完璧に所有している。彼らがすべてを吸収し刷新する、そしてすべてを自分のもとへ遡らせ、無限の宇宙を創り上げるような巨匠であるとはまだ言い難いが。彼らはゴヤ、スルバラン、エレーラを十分に記憶しているのだろう。また、マネ、モネ、ドガ、カリエールそして我ら印象派の画家たちから刺激を受けているのだろう。時は熟した、この中から誰がグレコになるのだろうか」(注13)。無論、以上に挙げた記事抜粋が当時のピカソを評するすべてではない。しかし、この頃多くはなかったピカソに関する批評においてこれらは、当時、ピカソがいかようにパリ画壇で受けとめられていたかを知る上で重要なものであったことも否めない。そしてそれらにおいて、エル・グレコやゴヤなどスペイン芸術の過去の巨匠の影響、あるいはその暗示がみとめられること、かつ、フランスの近代画家からの影響、あるいは近代的な側面を見ることができること、つまりこの二要素「過去のスペイン」と「フランスの近代性」を保持しているからこそこの画家は評価できるという図式が浮かび上がってくるのである。2.「スペイン的」それでは、このようなピカソ批評における傾向は特異なものであったのだろうか。モデルニズムの雑誌『ジョベントゥート』では、1904年1月7日発行の号でピカソに加えR・ピチョット、F・ヒメノ、M・ピデラセーラ、I・ノネイといったカタルーニャを拠点とする若い画家たちが、セバスティア・ジュニエントによる記事によって「ヨーロッパ絵画の巨匠、つまりサンドロ・ボッティチェリやエル・グレコとよばれるドメニコ・テオトコプリの王道を受け継ぐ者たち」としてエル・グレコなどの作品とともに作品図版付で紹介されている〔図3〕。ここでは、彼らの「若さ、新しさ」
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