鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―348―と同時にエル・グレコ、ベラスケス、あるいはフラ・アンジェリコといった過去の巨匠との繋がりが強調されている(注14)。また、『ペル・イ・プロマ』誌の創刊号では、創刊表明の次にベラスケスへの賛辞の記事が掲載されている(注15)。このように古典芸術や伝統に保証された正統性を保持しつつ、かつ今の時代に即したかつてない新しい芸術を模索してゆくという表面上の矛盾は、雑誌以外にも見ることができる。例えば初期モデルニズムの中心地であったシッジャスのカウ・ファラットにおいても、その室内は「近代芸術(アルテ・モデルノ)」を標榜するモデルニスタの作品とともにカタルーニャ地方の伝統工芸品、そしてエル・グレコの作品やボッティチェリの模写が同じ壁面に並べられており、それは例え意図的でなくとも伝統、古典と近代とがひとつの場に共存する独特の空間を生み出している〔図4−1〜2〕。実際にモデルニスタの大部分はパリを詣で、現地で吸収したものを報告あるいは実際に持ち帰ることによってヨーロッパ最新の芸術動向を故郷に伝播した。この側面からとらえれば、モデルニスタはパリを主としてピレネー山脈の北側の文化を直接体験した者、あるいは間接的にでも強く吸収しようとした者ともいえよう。しかし近代化、なによりも閉塞したスペイン社会の刷新を大きな目的のひとつとしたモデルニズムにとって、単純にピレネー山脈を越え、当時の芸術の中心地パリの潮流を十分に体得することのみが唯一目的ではなかった。他方で一国としての共同体意識にさらに裂け目を生じつつあったスペインにおいて、モデルニズムは、国家、あるいは民族固有の文化に根ざしたものである必要があったのである。そしてさらにモデルニズムのような世紀転換期スペインの芸術の傾向は、スペインの枠組みだけではなくフランスのそれも考慮する必要があるだろう。なぜならばパリで受け入れられたスペイン画家にとって、当時、パリの画壇がスペイン画家たちの作品をどのように受けとめたのか、あるいはどのような作品を求めたのかという点も彼らの作品になんらかの影を落としていると考えられるからである。バスク地方出身のイグナチオ・スロアーガもまた同時代にパリを目指し、サロンに出品歴のある画家であるが、彼による肖像画〔図5〕について批評家ギュスターヴ・パウリは次のように絶賛している。「この絵画はまったく本質的にスペイン的だ、つまるところこの調子はベラスケスやゴヤのそれである。もちろんスロアーガは高名な肖像画家たちの成功にあやかり祖国の古典的な巨匠たちからその効果をくすねたわけではない。そんなわけがあろうか!スロアーガとベラスケスを知るだけで十分である、それぞれが各自で固有の才能を持っていることを知るには」(注16)。

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