鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―357―聖なる処女」のかたわらには、2人の天使のほかに、同じくピエロの手になるピエタと聖ルキアが描かれていた。聖堂内にはまた、かつて、奇跡を起こすと信じられていた木彫りの聖母子像があったことを複数の記録が伝えている。17世紀前半までの史料からは、美術作品としての、そして、ピエロの作品としての壁画に向けられた、土地の人々の関心を読みとることができる。しかしながら、壁画に言及する17世紀後半以降の史料にはピエロの名を見いだすことはできない。実際、16世紀から18世紀にかけてのモメンターナ聖堂は、木彫りの聖母子像もしくは聖ルキア図を崇敬する人々のための場であった。これらの図像への崇敬も、しかし、やがて下火になり、1785年には墓地の造成に伴って聖堂は大幅に縮小されて墓地礼拝堂となる。壁画はようやく1889年にフンギーニによってふたたびピエロに帰属され(注2)、1911年にはフィスカーリによって壁体から剥がされて修復が施される(注3)。しかし、礼拝堂は1956年の改築によって一新され、壁画を取りまく環境は大きく変わる。そして、プロジェット・ピエロ・デッラ・フランチェスカの際、1992年から翌年にかけて、壁画には近年の方法論に基づく修復が施された。それ以降、本作はモンテルキの出産の聖母美術館に展示されている。フンギーニによる発見の後、壁画はピエロ・デッラ・フランチェスカ作《出産の聖母》として人々の知るところとなったものの、とりわけ天使の描写にみられる硬さや古めかしさゆえに、そのピエロへの帰属を疑問視する研究者も少なくなかった。そうしたなか、1927年のモノグラフの中で、ロンギは《出産の聖母》をピエロの真作と認め、《聖十字架伝説》の初期段階とのその様式的類似を「線的」と形容しつつ指摘し、モンテルキの壁画を1450年代前半というやや早い年代に位置づけた(注4)。実際、聖母の輪郭の形は《聖十字架伝説》の《アダムの死》の場面に描かれた人物〔図2〕の輪郭の形とよく似ている。また、聖母は《ソロモン王とシバの女王の会見》の場面の女官〔図3〕と同様の姿勢をとっている。以後、《出産の聖母》のピエロへの帰属はほぼ受け容れられ、多くの研究者が様式分析に基づいてこの壁画と《聖十字架伝説》を同年代に位置づけるようになった。しかしながら、《聖十字架伝説》の制作年代の上限と下限の間にはかなりの幅があり、したがって、《出産の聖母》の制作年代に関する研究者の見解はさまざまである。両壁画を同年代に位置づけたものの、《出産の聖母》を、たとえば、クラークやサルミはピエロ中期、すなわち史料が伝える1458年から翌年にかけてのピエロのローマ滞在の直後に、パオルッチやライトボーンは1450年代中頃に位置づけた(注5)。

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