―359―しかしながら、《聖十字架伝説》の制作年代をめぐる議論も収束していない。一般的に、ピエロは先に同連作の制作に携わっていたビッチ・ディ・ロレンツォが没した1452年に制作を引き継ぎ、1458年に始まるローマ滞在の前に、あるいは滞在の後に筆を置いたと推定されてきた。ところが、近年、ピエロは1440年代末にこの連作に着手していたと推定する研究者も少なくない。事実、モンテルキの史実に目を向けるならば、われわれは《出産の聖母》の制作年代の上限も1440年代にまで引きあげなくてはならなくなる。モンテルキは、1310年以降、アレッツォの僭主タルラーティ家の支配下にあった。ところが、教皇・フィレンツェ連合軍がミラノ軍に勝利した1440年のアンギアーリの戦いの際、タルラーティはミラノ側に加担したため、戦いの後、モンテルキはフィレンツェ政府の統治下におかれる(注9)。そうしたなか、1452年、フィレンツェ政府はモンテルキの自治を大幅に認める法を公布した。また、同じ頃、モンテルキの新たな城壁が築かれた。ヴァルターは、これらの決定事項とモメンターナ聖堂の壁画制作が関係づけられるものと見なし、現存する出産の聖母図の大半が当時のフィレンツェ領内で制作されたものであるという点に着目した結果、ピエロの《出産の聖母》は1452年頃にフィレンツェ政府の権力の象徴として制作されたものと推測するにいたった(注10)。とはいえ、かりにフィレンツェ政府があらたに傘下におさめたモンテルキにおいて宗主国としての権威を示すための絵画作品の制作を要請していたとして、その制作の場として集落郊外の小聖堂を、そして、その主題として妊娠したマリアをはたして選択したであろうかという疑問が生じてくる。一方で、看過してはならないのが、アンギアーリの戦いの後のモメンターナ聖堂を取りまいていた複雑な状況と、聖堂の司祭職を1451年まで務めていたのはピエロの縁者であった可能性が高いという点である。当時、モンテルキは教皇領内の都市チッタ・ディ・カステッロの司教区に属していた。このため、モンテルキがフィレンツェ政府の統治下におかれると、フィレンツェ政府とチッタ・ディ・カステッロ司教側との間でモメンターナ聖堂の管理権をめぐる争いが起こる。そのような状況のもと、おそらくフィレンツェ政府の後押しを得て、1440年から聖堂の司祭職を務めていたのはアントニオ・ディ・レンツォという名の人物であり、ジョルニが指摘したとおり、これはピエロの母親の兄弟である可能性がきわめて高い。そして、この人物を司祭に推挙したのは、ヴァルターが指摘したとおり、フィレンツェ政府が統治するようになったモンテルキの行政上の要職についたその兄弟ナルドであったと推定される。ところが、このアントニオ・ディ・レンツォは、
元のページ ../index.html#369