3唐代窟の造営年代―27―年代、第18窟北壁、第17窟を730年から750年頃までとした。また、李裕群氏も鈴木潔氏に近い造営開始年代を唱え(注8)、第4窟、第5窟、第7窟を684年から704年、それらに接近して第6窟、そして第11窟から第15窟、第18窟から第21窟を705年から712年とし、第17窟がやや後れるとする。造営開始年代をやや下げる見方をするのが、顔娟英氏である(注9)。第4窟から第6窟が則天武后以後中宗期にあたる705年から710年、第14窟が睿宗期(710〜711年)から開元初め、それにやや後れる第21窟も開元初めとし、続いて第18窟、そして第17窟を最後とする。第4窟から第7窟の東峰諸窟を早期造営とするこれらの意見に対して、西峰の主な諸窟が先行すると考えるのがHarry VanderstappenとMarylin Rhieである(注10)。彼らは最も早い造営を第21窟とし、711年頃とする。ことにMarylin Rhieにおいては景龍元年(707)と見なす(注11)。そして、第14窟を725年頃、第18窟北壁を735年頃、それよりやや早いのが第18窟東西壁、第4窟及び第6窟の3窟とし、第5窟、第17窟を天宝年間半ばにあたる750年頃とした。一方、第17窟を最後の造営とする従来の見解とは逆に、最も早い、8世紀初頭のまだ武周期(690〜704年)の作、としたのが曽布川寛氏である(注12)。そして、第21窟を開元初期、第18窟、続いて第14窟を開元年間(713〜741年)とした。なお、主な研究者の唐代窟造営年代の見解は、〔表2〕のとおりである。天龍山石窟唐代窟の史料は皆無に等しいが、唯一あげられるのが近年注目される「大唐勿部将軍功徳記」(以下「功徳記」)である。「功徳記」によると、神龍2年(706)3月、当時天兵中軍副使で右金吾衛将軍を任務としていた勿部xが、その妻黒歯氏とともに天龍山を訪れ、先尊と姻族のために三世仏及び諸賢聖の造像を発願、同3年(707)8月に造営を完了させ、同年景龍元年10月に「功徳記」碑を建立したという。だが、残念ながら「功徳記」には、どの唐代窟を指すのか記されていない。本「功徳記」にいう窟を、Marylin Rhieは第21窟(注13)、顔娟英氏は第6窟(注14)、李裕群氏は第15窟とする(注15)。「功徳記」からは、勿部将軍夫妻が神龍2年に天龍山石窟に登攀した時、非常に荒廃していた様子が窺える。つまり、天龍山石窟は、それまで長い間放置されていたと考えることができ、彼らの造仏こそが唐代窟の開始年代といえるのではないだろうか。また、記念的事業となるその窟をどこにあてるかは、李
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