鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―360―1451年1月、司教によって司祭職を解任される(注11)。ピエロが居住していたサンセポルクロも、アンギアーリの戦いの後にフィレンツェ政府の統治下におかれてその後ろ盾を得るや、チッタ・ディ・カステッロ司教との対立関係を明確にしていた(注12)。このサンセポルクロにおいて、ナルドと同様、ピエロの父ベネデットも、たびたび、行政上の要職についていた(注13)。いずれも商人でもあったナルド、アントニオ、そしてベネデットはまた、《聖十字架伝説》の注文主であったアレッツォの商人バッチ家も含めて、互いに知り合いであった(注14)。モメンターナ聖堂の壁画の制作決定、少なくともそのピエロへの注文は、いわば親フィレンツェ派であったこれらの人脈があったがゆえに実現したものと推測されるのである。つまり、《出産の聖母》は、アントニオ・ディ・レンツォがモメンターナ聖堂の司祭職を務めていた、1450年以前に制作された可能性が高いことになる。ダーベルとバンカーが1980年代以降に発見した複数の史料は、画家としてのピエロの本格的な活動が1440年代に始まったとするそれまでの通説を覆し、ピエロがすでに1430年代に盛んに画業を遂行していた事実を明らかにしている(注15)。ピエロはおそらく1440年代中頃には有名画家としての地位をサンセポルクロ内外で確立していた。この年代にピエロが聖堂の装飾のために近隣の集落に招聘されたと仮定しても、いまや、何ら問題はないはずである。実際、しばしば指摘される《出産の聖母》の様式的な特異性は、画家の初期の作ゆえのものと筆者には思われる。2.制作動機1911年に《出産の聖母》が壁体から剥がされた際、その下から、おそらく14世紀に描かれた、天使を伴う聖母子の壁画の一部が発見された。つまり、ピエロは壁画の描き直しを依頼されたわけである。その動機は何であったのか。なぜ、ピエロは古い壁画に倣って聖母子を描くことなく、あらたに出産の聖母図を導入したのであろうか。14世紀のトスカーナで成立したと推定される、現実の妊婦のように腹部が膨らんだ立像のマリア、いわゆる出産の聖母の図像〔図7〕は、率直にいうならば、受肉を表現したものである(注16)。中世を通じて、受肉はマリアの多くの神学的属性に結びつけられた。事実、先行研究はピエロの《出産の聖母》にさまざまな意味を読みとってきた。たとえば、トルナイはピエロの《出産の聖母》に描かれた幕屋を慈悲の聖母のマントに相当するものと見なし、バッティスティは本作に無原罪の宿りの教義を、マルトーネ、カルヴェージ、ポッツィらは契約の柩を納める旧約のタベルナクルム(幕屋)をマリアの予型と見なす伝統的な解釈を読みとった(注17)。

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