鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―361―他方で、《出産の聖母》が墓地に隣接する礼拝堂で発見されたことから、この壁画が墓地あるいは死と関係づけられるとする見解がしばしば提示されてきた。たとえば、フェウダーレは、多くの神学的記述を検討したうえで、この妊娠したマリアを処女のまま出産した帰結として天にあげられたマリア、死に対する勝利者、神への代願者としてのマリアと見なした(注18)。とはいえ、現在の礼拝堂に隣接する墓地は18世紀に造成されたものであり、したがって、この壁画と墓地や死との関連性は多くの研究者によって否定されている。その一方で、ピエロの《出産の聖母》が妊娠や安産祈願の対象という機能を有していたと推測する研究者が少なくない(注19)。現に、壁画は、近年まで、モンテルキ内外の妊婦等の崇敬を集めていた(注20)。しかしながら、ピエロが生きた時代に出産の聖母の図像が妊娠や安産祈願の対象として用いられていたことを示す史料は見つかっていない(注21)。また、16世紀から18世紀にかけてのモメンターナ聖堂は木彫りの聖母子像もしくは聖ルキア図を崇敬する人々のための場であった。ヴァルターが指摘したとおり、ピエロの《出産の聖母》への妊婦の崇敬が盛んになったのは、研究者たちによる19世紀末のその再発見の後のことであった可能性が高い(注22)。対するに、フェウダーレが指摘したとおり、初期キリスト教時代から、神学はマリアの被昇天という奇跡をその処女懐胎という奇跡の結果と見なしていた。『黄金伝説』も、マリアが無垢のままキリストを宿した器あるいはタベルナクルムであったがゆえに死後の腐敗を免れて天にあげられたという点を繰り返し強調している。このような考えは、15世紀、シエナのベルナルディーノの説教などを通じて、信徒にも広まっていった(注23)。筆者が着目するのが、中世末期に建造または改築されて聖母に捧げられたイタリアの北部や中部の小聖堂の多くは、ペストなどの災いと関係づけられるという事実である。それらの聖堂の大半は、モメンターナ聖堂と同様、方形の簡素なものであり、その建造や改築の目的は神の怒りを鎮めて災いを回避することにあった(注24)。モメンターナ聖堂には、かつて、病人に対して奇跡を起こすと信じられていた木彫りの聖母子像があった。聖堂は、少なくともある時代、病気治癒の祈願の場として機能していたはずである。ところで、サンセポルクロのミゼリコルディア同心会が用いていたラウダ集は、疫病の際の庇護者というマリアの属性に言及しており、また、聖セバスティアヌスに捧げられたラウダを収めていることから、ペストの際に用いられていたものと推測される。このラウダ集の第5歌によれば、マリアは、キリストという生命の泉を従順にもその胎内に宿したがゆえに、薬を持ち、あらゆる病を癒すいと

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