―362―高く神々しい女王であった(注25)。ピエロが生きた時代、モンテルキやその周辺地域はペストなどの疫病にたびたび見舞われていた。たとえば、1449年に蔓延したペストがわずか3ヶ月の間に400人ものアレッツォ市民の命を奪ったことを記録が伝えている(注26)。あるいは、集落からやや離れた丘の斜面というその立地条件ゆえに、すでに18世紀以前からモメンターナ聖堂の近辺にはペストの犠牲者のための墓地があった可能性もあるのではなかろうか。現に、モメンターナ聖堂のすぐ近くには隔離病院と墓地が併設されたサン・ロッコ聖堂があった(注27)。ピエロは《出産の聖母》の幕屋を当時の図像伝統に則ってペストの際の庇護の象徴として描いた可能性もあるように思われる。サンセポルクロの近くのセスティーノのミゼリコルディア聖堂にある、1421年に制作された行列用旗の表側に描かれた慈悲の聖母〔図8〕が身につけるマントには、ピエロの《出産の聖母》における幕屋の幕と同様、格子状の筋のある裏打ちが施されている(注28)。また、モンテルキの近隣都市コルトーナに伝わるモザイク壁画〔図9〕の聖母の背後には、同じく格子状の筋のある幕が描かれている。この聖母図はコンスタンティノポリスのブラケルネ聖堂にあったイコンから派生したブラケルニティッサの聖母図のタイプに属すものであるが、このイコンと聖堂が保管していた聖母のマントの聖遺物は、危機の際に庇護をもたらすものと信じられていた(注29)。一方、マルケ州のヴィッソの市立美術館にはピエタとそのかたわらの信徒たちを幕屋が覆うという構図の15世紀後半に制作されたフレスコ画がある〔図10〕。この幕屋がペストの際の庇護を象徴していることは明らかである(注30)。すでに1230年の記録にその名が記されているモメンターナ聖堂が、元来、どのような機能を有していたかは不明である。しかしながら、やがてペスト除けの祈願の場もしくは故人の救済祈願の場となったこの聖堂の壁画の描き直しを依頼されたピエロが、贖いを象徴する死せるキリストと眼病者やその他の病人の崇敬を集めていた聖ルキアとともに、ペストや死に対する勝利の象徴としてこの懐胎したマリアを描いたという可能性は十分考えられる。結論ロンギが指摘したとおり、そして、近年の修復と調査の結果が示すとおり、《出産の聖母》と《聖十字架伝説》の初期段階は同年代に制作された可能性が高い。この《聖十字架伝説》にピエロは遅くとも1452年には着手していた。おそらくはピエロの
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