注石窟の大規模な破壊以前の状況については、外村太治郎・平田饒『天龍山石窟』(金尾文淵堂、1922年)、構造については、林良一・鈴木潔「天竜山石窟の現状」(『仏教芸術』141号、1982年)、李裕群・李鋼『天龍山石窟』(北京、科学出版社、2003年)、散在した像の所蔵先については、Harry Vanderstappen and Marylin Rhie, “The sculpture of T’ien Lung Shan: Reconstruction and Dating”,ARTIBUS ASIAE27−3, 1965、孫迪『天龍山石窟 流失海外石刻造像研究』(北京、外文出版社、2004年)の業績に拠るところが大きい。 前掲注、東壁について、林良一・鈴木潔「天竜山石窟の現状」、77頁では、菩薩立像2体とするが、李裕群・李鋼『天龍山石窟』、34頁では、右に菩薩(舒)坐像、左に菩薩立像があったとする。■前掲注、李裕群・李鋼『天龍山石窟』、34頁では、西壁には2体の菩薩像があったとする。■鈴木潔「天龍山唐朝窟編年試論」(『町田甲一先生古稀記念 論叢仏教美術史』町田甲一先生古■前掲注、李裕群・李鋼『天龍山石窟』、94頁。―28―裕群氏と同様、筆者も第15窟の可能性が高いと考えている(注16)。同時期に、ややぎこちなさが残るものの瑞々しい造形性を持つ第4窟、それが発展し、自然で溌剌とした人体表現を見せる第14窟へと続き、さらに盛唐彫刻の最高潮ともいえる成熟した写実性を持つ第21窟、第18窟東西壁、やがて下降、マンネリ化が始まる一歩手前の表現といえる第6窟の順で造営されたと見なしたい。そして、唐代窟造営の晩期にあたるのが、第5窟、第18窟北壁で、最後に第17窟が完成したと考える。なお、第17窟諸像に見られるような、自然な肉体表現が失われ、単調な衣文線で装飾性を強調する特徴は、鈴木潔氏が指摘したように(注17)、開元25年(737)の石造釈迦如来立像(山西省博物館)や天宝4年(745)の石造如来倚像(山西省博物館)と共通することから、開元末から天宝初までが下限となろう。ポイントとなるのは以上の窟であるが、天龍山石窟唐代窟は、707年から740年代初の約30年間で造営されたと考えたい。おわりにかつて晋陽と呼ばれ、長い歴史を有する太原は、唐国の発祥地として特別な場所であったとともに、突厥を防御する要塞地としても重要視されていた。そのような地域に位置する天龍山石窟の唐代窟は、長安周辺の作品との関連性も窺えることから、中央の技術を持った、優れた工人集団によって手がけられと考えられる。今後は、他地域とのさらなる造像様式の比較とともに、造営背景についても考察を深めていきたい。稀記念会編、吉川弘文館、1986年)、196頁。
元のページ ../index.html#38