―370―Ⅱ 本論第1章 秋尾園の家系と経歴従来、研究者に知られていなかった秋尾園の家系も、今回遺族から教示された、秋尾園の弟新六の事跡をまとめた著作に触れられていた(注1)。それによれば、秋尾家は代々沼田藩士として土岐家に仕えた。秋尾園は、秋尾利義と妻マツとの間に三女として文久3年(1863)に生まれた〔図1〕。父の秋尾利義は馬術大坪流の名手であり、幕府陸軍の馬術指南役をし、明治維新後は陸軍の馬術教官になった。明治20年に退職し、園の嫁いだ中島精一との関係から神田今川小路に絵画・幻燈絵を扱う事業を始めたという。そして明治30年1月30日、64歳で没した。大植四郎『明治過去帳』(東京美術、昭和46年)にも秋尾利義の項目がある。ただ、馬術に関しての言及はない。陸軍に勤務した利義は、図画に対しても理解があったと推測できる。なぜなら陸軍の諸学校は図画教育を重視し、川上冬崖や小山正太郎をはじめ初期洋画家が多数、教員として勤務していた。また騎兵関係の御雇外国人教師である仏国人デシャルムは図画の指導もしていたとされる。それゆえ秋尾園の西洋画との接点は、父利義の陸軍勤務ではないかと推測される。また秋尾園資料中に薄葉の浮世絵下絵が多数ある。最初は浮世絵を学んだのであろう。工部美術学校に明治9年12月14日に女子入学の規定ができた。園は遅くとも明治10年初めには入学し、明治13年10月頃まで在学したと思われる。明治10年の「4月20日」の幾何学課題が資料にあり、明治10年度(明治10年7月〜11年6月)、明治12年度の「画学生進歩表」に秋尾園の名がある。東京芸術大学所蔵の明治13年9月9日年記の模写素描もある。同じ女子生徒の山下りん、神中糸子は明治13年10月、11月ころに退学した。秋尾園は明治13年頃、写真家の中島精一と結婚した。この結婚を機に退学したのであろう。中島精一は周知のように明治期の代表的写真家、幻燈製作者で、待乳(まっち)と号する。銚子に生まれ、江戸に出て南画家や眼鏡屋で修業し、自力で写真機を作成して明治元年試写に成功する。その後陸軍省出仕や山城屋で働いた後の明治7年に浅草吾妻橋畔に写真館を開業する。横山松三郎に洋画と写真を学んだとされ、浅草の待乳山聖天(本龍院)にちなんだ号「待乳」も横山の命名とされる。ただし、中島自身の履歴等には記されていない。明治15年に文部省が全国の中等学校に配布する幻燈機と映画(スライド)の製作に従事し、成功する。園はその下絵製作や彩色を手伝ったとされる。
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