―380―して行なわれていたことが窺える。チェ氏の工房はチェ氏の代で20代目といい、200年前のものを含むおよそ200種の版木を保有する。工房は村内に2軒(展覧室兼用と住宅兼用)あり、ハノイ市内にも販売店を構える。製品はベトナム全土で土産品として販売され、なかには偽物さえ出回っているという。10歳からこの仕事に従いたチェ氏は、曾てハノイの美術大学で教鞭をとっていたが、引退後はドンホー版画の振興と後代の育成に取り組み、近く図録出版や大規模な共同工房の建設も計画している。また、息子クア氏の代でおよそ14代目というサム氏の工房も版木保有数、家族間での分業・継承体制では同様である。村内にはやはり2軒の工房があり、土産物としての販売ほか海外からの注文制作も請け負う。両者ともに数多くの称号を受け、その芸術的地位は高く認められている。ハンチョンはハノイの職人街にある通りの名前で、此処に版画制作・販売の画店が多数あったことに因む。しかし実はそれ以外にもハンノン通り、ハンクアット通りなど同職人街内には版画を扱う複数の通りがあり、これらもその内に含む[Durand: 19][Bui Van Vuong: 21]。ハンチョン版画の職人はいずれも地方の印刷中心地から上京し工房を構えたもので、首都ハノイの住民を対象とした。その創始は17世紀と推察される。曾ては家族工房を集めた画業組合も存在したが、現在は経済的困窮による転業や戦争の影響などで解体し、レ・ディン・ギエン氏一人が技術の伝承を担っている。そのギエン氏は祖父の家業を継ぐ三代目で、小さい頃から版画の制作・販売に携わってきた。当時は年末になると市や街に販売に出かけたという。販売の際は、壁に画を掛け並べた。今では季節性はなく、1973年から奉職するハノイの美術博物館で修復と顧客の注文に応じた制作に携わるほか、美術館で作品を販売するのみである。現在、その大切な技術を息子の代に伝承しているところである。キムホアン村はハノイの南西約20km、ハータイ省内に位置する。18世紀後半の創始といい、「紅い画」としてドンホーの「白い画」と並び称されたが、1915年の洪水やその後の飢饉、戦禍の影響で1945年みずから版木や版画を壊して以来、途絶えた。公会堂を守るチャン・アット氏(85歳)も10歳頃まで祖父、父と共に版画業に参与した思い出をもつ。当時、同様の工房は15軒程あり、販売に際しても村人同士協力しあった。市では地べたに蓆を敷きそこに画を拡げて販売したという。また村所有の版木を年末各家に配布し、年明けに再び回収するという互助関係もあったという[BuiVan Vuong: 24]。キムホアンの版画は主にハノイと近郊の農村向けに販売されたが、その外観・技法上の特徴も上記二つの版画の折衷や差別化を図ったものとみられる。現在、美術博物館に2枚、村の展覧室に1枚の実物が残るほか、歴史資料に幾らか影
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