鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―383―の場合、性別と人数、建築構造物、供物や諸々の家の象徴物など、その描き換えが全体に及ぶいっぽう、構図は概ね踏襲される。このことは神像全般について当てはまり、人体や服装の表現には外来の図像要素と自生要素との分別が如実に表れる〔図9・10〕。更に図像解釈の上でも高い共通性を示すのは、童子、福禄寿、花卉植物、瑞獣などの吉祥題材で、桃や石榴など象徴的な意味を同じくするのみならず、諧音(音通)の手法や吉祥語の細部に至るまで相通じることが注目される[Durand: 25−30]。5.技法・図像からみる中国との交渉:地域と時期更に細部を検討すれば、伝播の径路や時期についても幾許かのヒントが見いだせる。ハンチョン版画については、既に指摘される楊柳青以外の地域からの影響を示す痕跡もある。すなわち画題選択や筆彩法の面では特に広東省や福建省など南部沿海地域との関係性が濃厚である。例えば「紫微照宅」では、渦巻文、顔貌の陰影表現、金彩銀彩の使用と共通点は多岐に亘る〔図11・12〕。手彩色を行なう他地域と比較しても、広東佛山の例が最も近似する。佛山の馮氏一家の工房は20世紀前半まで東南アジアに販路をもっており、同様に広東、福建、湖南、また四川の一部でも曾ては東南アジアに販路があったことが知られる。図像的特徴や印刷法における共通性はこのことを幾らか傍証する。例えば紅紙使用の普及、門神の造形特徴や虎図など題材選択の好みは、上記沿海部に見られるのと同じ傾向を示している〔図13・14〕。また印刷法に関しても、竹紙を使う湖南灘頭や福建泉州では、色版を先に墨線版を後に刷るというドンホー式の手順に依る。南部沿海地域との類縁性は、諸方面に亘るものといえる。いっぽう図像交渉の時期についても、特定の図像からある程度の年代考証を試みることができる。例えば「金雲翹伝」は、1813年に正使として清に渡った阮攸が帰国後喃文の長編叙事詩に改編したもので、民衆版画の題材となったのはそれ以降と考えられる。また「二十四孝図」は、明の万暦年間以降に優勢となる『日記故事』系の孝子と図像の型を継承し、小説戯曲類の題材もまた明末挿絵の伝統を踏まえることから、それ以前には遡らない。なかには芝居装束を描く例も多く、清代に隆盛した戯齣年画との対応が考えられるが、京劇に由来し18〜19世紀に興隆したという従劇や土着の嘲劇など演劇との直接的関係も想定される。ただその興隆時期から推して図像の起源はさほど古くに遡らない。以上の断片的考証から、現存する民衆版画に表れる図像の多くは、早くて明末以降おそらく清代以降に吸収されたものと推定される。また技法の

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