―384―面からも、「1版」による多色刷は明末17世紀初頭以来の発明であり、少なくとも現行の制作技法は明末以降の交渉に依拠するところが大きいと考えられる。図像の比較対照からは、天津楊柳青・湖南・四川、更に山東・河北・浙江など広範な地方との類似性が程度の差こそあれ認められる。が、特に広東(佛山、2州)・福建(泉州、2州)あたりの南方沿海部との共通性が高いといえる。確実な交渉ルートを辿ることは困難だが、宗藩関係と移民の定住を核とする人の流れが鍵であることは間違いなく、特に明末の大量移民とそれ以降の頻繁な交通関係が、現存する民衆版画の図像定着と形成に大きく影響を及ぼした可能性が濃厚である。またその定着の度合いから、複数の径路を通じ、また時間をかけて浸透し根をはったことが推定される。6.近代以降の動き:メディア・伝統文化としての民衆版画双方の民衆版画の比較からはまた、各々の文化社会の独自性とともに、発展経緯における類似性が浮かびあがる。それは特に近代化過程における動向に顕著である。近代化以降の民衆版画を繞る動きのひとつは、メディアの性質を帯びたことである。時事や新風俗を扱う題材は、特に木版多色刷のドンホー版画に多数の例を見ることができるが、ハンチョン版画にはあまり見られない。これは版画と半肉筆の違いであり、民衆版画の必然的傾向を示している。中国でも19世紀末以降その教育宣伝機能に注目が集まり「改良年画」が提唱された。ベトナムでも同時期に同様の動きがあり、新風俗や学堂を描く時事・教育的題材が増え、漢字をクォック・グーに替える版も生まれた。また独立後はホーチミン等を題材とする宣伝画も制作されている〔図15〕。いっぽう中越関係が悪化した時期には版木から漢字が削られるなど、ベトナムの場合も政治的影響が抜き難く及んでいることが確認できる。もうひとつの動きは、民衆版画が伝統文化・美術の文脈に組み込まれたことである。生活の近代化とくに居住空間(建築)の変化により、都市部を中心に風習が下降線を辿るいっぽう、愛好家や外国人向けの民俗的工芸品・観光土産へとその意味や機能、形態にも変化が起きている。版木を鑑賞の対象とするなどベトナム特有の傾向もあるが、文化の継承が一部有志や美術家の先導に頼り、いっぽう切手図案や商業デザインとして継承活用されるなど、意味や機能における変質は両者に共通する。また、本来近しい関係にあった紙屋や冥器売りとの離反が表向きは進行するものの、なお職人街を彩る祭祀用品店やハンコ屋に信仰風俗の面での命脈をみてとることができる。
元のページ ../index.html#394