A近代におけるイタリア・ルネサンス美術の再評価と日本の美術史家―388―研 究 者:広島女学院大学 生活科学部 教授 末 永 航はじめに本研究は1925年ロンドンで大部のボッティチェッリ研究書を刊行した矢代幸雄を中心とする日本の西洋美術研究者が、欧米でのイタリア・ルネサンス研究勃興期にどのような関わりをもったかを探るものであるが、今回の報告では、特に矢代の同時代までの日本の美術史家を概観し、西洋の学界とのつながりを把握することをめざしたい。1.日本における初期の西洋美術史とイタリア・ルネサンスおそらく、日本で最初に西洋美術史を専門とした研究者は東京美術学校教授を務めた岩村透だった。岩村は明治3年(1870)、土佐宿毛出身で各地の県知事や貴族院議員を歴任して男爵を授けられた岩村高俊の子として生まれた。青山学院の前身である東京英和学校を中退して明治21年(1888)アメリカに渡り、美術学校に学んだ後、明治24年(1891)にはパリに移って約半年アカデミー・ジュリアンで絵画を習い、翌年には4か月イタリアに旅行、さらにパリで一月を過ごして明治25年(1892)末日本に帰国した。パリで黒田清輝、久米桂一郎と知り合って明治美術会に入会、黒田たちが脱退して白馬会を創立するとそれに参加し、明治32年(1899)、黒田が教授を勤める東京美術学校で西洋美術史の講師を委嘱される。それまでこの科目は森4外が担当していたが、陸軍軍医だった森が小倉師団へ転勤したために岩村が起用された。経歴からすると岩村は画家であったようにみえるが、留学中のどこかの時点で美術史を専攻することを決意したらしく、帰国後は評論家、あるいは美術史の教師として終始し、作家として活動することはほとんどなかった。明治36年(1903)には教授に就任、同39年男爵を襲爵、44年慶應義塾大学の西洋美術史(「芸術史」)講師を兼任するようになるが(注1)、大正4年未だにはっきりとしない理由で東京美術学校教授を解職され、同6年(1917)48歳で病没する(注2)。最初の留学以降も岩村は短い生涯にさらに3回渡欧している。明治33年(1900)から翌年にかけてはアメリカ経由でパリに行き万博を視察、帰国後前回の印象も加えてパリの画学生たちの生態を皮肉まじりに紹介した『巴里の美術学生』(1902年、画報社)を出版、この本の成功は一躍岩村を有名にした。明治37年(1904)から翌年にか
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