鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―389―けてはアメリカのセントルイスで開かれた万国博の美術部審査官として渡米、フランスやドイツ、イタリアではヴェネツィアにも滞在し、ギリシア、エジプトにまで脚を伸ばした。第4回は大正3年(1914)4月から9月、主にフランスを旅行している。岩村は語学に達者で欧米の新刊書によく目を配り、絶えず新しい情報を得ていたし、またそれを自負してもいた。明治の末(1907−12年)に書いた「モレリの古画鑑定法」という文章の冒頭で、岩村は「先頃」「我国の新聞、雑誌」では初めて「ある美術評論家の談話中に、モレリの古画鑑定のことが、一寸、引合に出されてゐた」が、これは「決して、新しいと云うものではない」、と述べ、自分は「十五年来、深くモレリの議論に興味を感じ、モレリの後継者ベレンソンの著書など、常に愛読してゐる」から紹介を書くと断っている(注3)。1819年生まれの政治家モレッリは1874年から絵画の科学的鑑定法についての論考を発表して1991年には亡くなっているから、この時点では没後20年以上経っていたが、岩村は15年以上前からよく知っていたというのである。少年の日に岩村自身がラスキンの著書に出会った場所でもある中西屋(注4)や、丸善などの日本の洋書店でも、明治半ば以降は外国語が読めてそれを買う余裕のある者はかなり早い情報を得ることができたのだった。後に述べる澤木四方吉が「モレリの美術論」(注5)として抄訳と解説を『三田文学』に発表するのは大正8年(1919)年になってからだから、岩村の紹介はかなり早かったというべきだろう。岩村はルネサンスを中心とするイタリア美術に強い関心を持っていて、旅行もしているし、生前『西洋美術史要』と題して編集刊行したものが「第一編伊太利亜絵画之部」「第二編伊太利亜彫刻之部」「第五編伊太利亜建築之部」(注6)、とすべてイタリアを扱った部分であることにもそれは現れている。しかし、小さくても鮮明な図版を数多く掲載したこの3巻がいずれも英語の本の翻訳あるいは翻案であったように、岩村の仕事は欧米の研究をまとめて紹介するものであり、4度の欧米滞在でも大学や研究所で自ら何かの専攻研究を試みた形跡はない。「自分自身を全く先生化したることゝ見えて」いつも「教師の心持を脱し得ない」、「蝸牛が己が住み家を負ふが如く、余は常に講堂を背負うて歩るきつゝあることゝと見える」と自ら書くように(注7)、岩村の本領は実技の学生たちにも人気の高かった講義にあったようだ。ただしこうした岩村が、実技の学生の中から理論や歴史に才能がある者をみつけ、指導、援助を与えて森田亀之助、田邉孝次などの後継者を育てた点は注意しておきたい(注8)。

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