鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―390―美術学校ではなく、日本の大学で美術史の講座が設置されたのは大正に入ってからのことである。東京帝国大学では日本美術史専攻の瀧精一(拙庵)が大正3年(1914)新設の美学美術史第二講座教授となった。明治43年から瀧は岡倉覚三(天心)と共に講師として授業を担当していたが、専攻課程ができたのはこれが初めてだった(注9)。西洋美術史は、美学の大塚保治教授が講義はしていたが専任の教員はいなかった。西洋を専攻する者は大塚の弟子の世代から現れる。大正12年(1923)に講師となり、昭和4年助教授に就任した明治25年生まれの團伊能、東北帝国大学教授・東京帝国大学教授となる明治20年生まれの児島喜久雄などが東大での最初の西洋美術史家である。これに東大英文出身で明治23年生まれの矢代幸雄、明治19年生まれで慶應義塾出身、やがて母校の教授となる澤木四方吉、明治27年生まれで早稲田大学教授などを勤める板垣鷹穂、28年生まれで哲学者でもあり、東大教授となる矢崎美盛などが加わり、おおむね明治20年代に生まれた世代が本格的な西洋美術研究者として最初の世代を形成することになる。また、明治20年生まれで朝日新聞の記者を停年まで勤め、早稲田大学の教授にもなった坂崎坦、早稲田の英文を卒業して建築科の講師を勤め美術評論でも活躍、後には岩手大学などの教授、また民俗学者としても知られるようになる明治25年生まれの森口多里など学界以外でも活躍した早稲田出身者もこの世代である(注10)。2.欧米の美術史研究と日本の美術史家今みた世代の人々がヨーロッパに留学するのは、大正に入ってからになる。もっぱらフランス美術を扱った新聞記者の坂崎と、『印度文学史』(向陵社、1916年)を翻訳し、哲学者でもあった矢崎を除いて、ほとんどが主な関心を抱いていたのがイタリア美術だった。この時代の留学は数年間に及び、いくつかの国を移動するが、美術史の場合はドイツか、あるいはフランスで大学の講義を聴いたり教授の指導を受け、長期のイタリア旅行をする場合が多かった。この世代でいちばん早く留学に出た慶應の澤木は大正元年(1912)ドイツに行き、ベルリン、ミュンヘンでそれぞれ約5か月学ぶ。ミュンヘンではヴェルフリンの講義に出席している。澤木は27歳、1864年生まれのヴェルフリンは49歳、『ルネサンスとバロック』(1888年)、『古典美術』(1899年)を既に出していたが、『美術史の基礎概

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