―391―念』は1915年出版されるから、まだこの時点では刊行されていなかった(注11)。ヴェルフリンを「現代における最大の美術史家」であると澤木は後年述べている(注12)。しかし第一次世界大戦が勃発し、友人たちと澤木はドイツからイギリスに移り、ロンドンで喀血、以後結核に悩まされ、やがて43歳で早世することになるが、ともかくロンドンから念願だった2か月あまりのイタリア旅行に出かけ、大正5年(1916)帰国した。次ぎに留学するのは團伊能だった。大正7年(1918)、團26歳の年である。アメリカのハーヴァード大学、そしてフランス移ってリヨンなどで学び、大正10年に帰国するまでイタリアにも4回長期の旅行をしている。児島と矢代が留学するのは團が帰朝した大正10年(1921)で、児島が1926年、矢代が1925年まで滞在した。この間大正12年(1923)には関東大震災が起こり、矢代は父を失う。児島はドイツ、オーストリアを拠点にしていたようだが、パリにも長くいたし、イタリアには5、6回かなり長期間滞在したと思われる。フィレンツェの道で偶然旧知のフォン・ボーデに出会い、研究所にいっしょに行ってから毎日顔を出すようになり、シュマルゾウたちに紹介されたことを随筆に書き残している。この時、児島は37歳、ウィルヘルム・フォン・ボーデは79歳、アウグスト・シュマルゾウは72歳だった(注13)。ドイツが1988年に設けたフィレンツェの美術研究所は第一次大戦で閉鎖されたが、戦後1922年秋から元通り開かれてるようになったという。児島はシュマルゾウのいたライプツィヒ大学に行こうと計画していたが、もうこの大学を引退していたので会えなかったこと、東北大学にシュマルゾウの蔵書を一部購入したことなどを話し、さらに「教授の『マサッチオ研究』その他の話、新刊雑誌の論文の話などをして私は思ひがけなく色々暗示を得て帰った」。また1924年9月にウィーンの文部省保存局長だったハンス・ティーツェを訪ねたときのことも児島は文章に残している。1880年プラハ生まれのティーツェはやがて1938年ニューヨークに移ることになるが、この時は「44歳にしては可なり老けて見えた」という。滞在中児島は私宅にも招かれて、仕事の協力者でもあった「若く美しいコンラート夫人」に会って、ゆっくり話し込んだ。誘われたとき、児島は「一遍どこかへ誘おうと思つていたところだつたから喜んで承知した」という。「当時は独逸やオーストリヤの人達は一般に皆貧乏して居たのだから、留学生は誰でも大抵習慣的に此方から先生を誘ひ出すやうにして居たのである」(注14)。第一次大戦後のドイツ圏への
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