―392―日本人留学生は為替の関係から豊かな生活が可能だったが、師友に対してもこうした常識ができていたらしい。3.ボッティチェッリと矢代幸雄矢代幸雄は東大では美学ではなく、英文科に籍をおいた。しかし在学中は文展に入選して画家を志したり、同人誌などでデザインを担当したり詩を書いたりし、卒業するとかつて岩村透がいた東京美術学校の教師となり英語と美術史を教えていた。学校の外でも児島と『美術新報』という美術雑誌の編集を引き受けたり、また後に「サクラ教科書」と呼ばれる国語の国定教科書を編集して知られるようになる井上赴と共同で『ジョージ・ワシントン』という本を翻訳編集したりと多様な活動をしていた(注15)。その矢代が留学したのは大正10年(1921)で、まずロンドンに行くが、深まりゆく秋に耐え難くなり、太陽を求めて突然のようにイタリアに向かった。当時は「イタリアではローマ大学にアドルフォ・ヴェントゥリ教授が活躍し、フィレンツェにはベレンソン先生が立派な独特なる研究設備を擁しておられ、またドイツにはボーデという大家があって、互いに新発見を競い合ったという、実に盛んなる時代であった」。矢代は「その中の最強の驍将と信じていたベレンソン先生の許に入りびたることを得」る(注16)。そこでの成果をまとめ上げたのが、ロンドンで大正14年(1925)に刊行したSandroBotticelli、天金、縦36、横28糎という大判の3巻本で、1巻が本文、残り2巻はすべて写真図版である(注17)。多くの部分拡大写真を撮ることは矢代の発案だったといわれる。ところがこれにはロジャー・フライをはじめ何人かが厳しい書評を公表し、1929年になって前よりも小さい1巻本の形で出版した改訂版で矢代は必死に反論を試みることになる(注18)。今日のボッティチェッリ研究書に書かれている研究史でも、矢代の著書の評価はけっして高くない。ライトボーンは「一風変わった評論」と断じて「几帳面な年代決定を極端に推し進めている」と批判している(注19)。チェッキは一応文献表に記載しているが(注20)、ゾルネルは文献表にも掲載せず無視している(注21)。しかし一流の書肆から改訂版の刊行が許され、現在でもよく知られているこの本には、おそらく強く支持する読者がいたはずである。矢代家に保存されていた書類の中には印税の計算書と見られるものや出版社との書簡もいくつか含まれおり、戦後再刊する計画が持ち上がったという話も否定しきれない。この書の反響をより多方面から
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