―396―(西ガーツ)山脈上に自然発生的に形成され、紀元前3世紀にマウリア朝のアショー(注6)の主たる方法論も同様であったが、二者が別々に論じられてきたために、様点には、古代交易路の中で最も栄えた行路として知られるナーネーガートが所在する。マハーラーシュトラ州の交易路は、デカン高原の西縁部を南北に走るサヒアードリーカ王がインド各地に支配地域を拡大した頃から、著しく発達した。マハーラーシュトラ州は、サヒアードリー山脈を境として、東側はデカン・トラップと呼ばれる台地上の内陸地方(デーシュ地方)、西側はアラビア海沿岸地方(コーンカン地方)に区別され(注4)、北インドとの接触を可能とした前者と、アラビア海交易の拠点であった後者をつなぐ地点として、これらの峠道(ガート)が初期歴史時代の西デカン地方の社会経済にとって重要な役割を果たした。ガートの重要性は、時の政治権力によっても強く認識されていた。紀元前1世紀〜紀元後2世紀頃にかけて西デカン全域を支配したサータヴァーハナ朝は、ナーネーガートに自らの功績を称える銘文を刻出させることによって、社会展開の主要動因の一つである商業的利権の掌握を明示した(注5)。さらに、ガートの近傍にはしばしば貯水槽や通行税を徴収するためとみられる甕が遺存することから、関所のような役割を果たしていたとも考えられる。つまりジュンナルは、初期歴史時代の西デカン地方最大の関所に最も近接する集落として繁栄を享受したとみられ、インド最大の仏教石窟寺院群が形成された背景には、強固な社会経済基盤が存在したことが理解される。3.ジュンナル石窟における建築様式の変遷ジュンナル石窟における11支群の開鑿順序を考察し、初期歴史時代における仏教石窟寺院の消長過程および社会展開を理解する上で、石窟の構造的・様式的観察と、寄進銘の字体分析や内容解釈が有効な手段となる。ジュンナル石窟に関する先行研究式展開を促進した社会的要因、あるいは寄進銘の記録内容に定義される宗教的空間の在り方が、実体的に理解されるには至っていない。そこで本稿は以下の各章において、ジュンナル石窟の構造的・様式的分析と、寄進銘の内容解釈をそれぞれ行い、結論において考察結果を相互に連関させることを試みる。ジュンナル石窟の様式的変遷を論じるに先立ち、インドの前期仏教石窟寺院の様式的変遷について概観しておく必要がある〔図3〕。インドの仏教石窟寺院を構成する主たる要素には、ストゥーパ(仏塔)を安置するチャイティア窟(祠堂窟)と、出家の居住・修行空間であるヴィハーラ窟(僧房窟)があり(注7)、とりわけ石窟寺院の宗教性を象徴するチャイティア窟は、仏教教団の理念や儀礼方法などと関連しつつ、
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