鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―398―例全てにおいて採用される一方で、チャイティア窓は全く意匠化されなくなる。シヴネーリー東第48窟は、矩形プランの堂内にさらに2本の八角柱と左右1対の付柱を彫りだして、前室とストゥーパを祀る本堂を区画するようになる〔図11〕。西インドの他の造営例においても、堂内を重層的に区画する例は単堂形式より時代を下ると理解されることから、シヴネーリー東第48窟がジュンナル石窟中最も造営年代を下るチャイティア窟であることは、ほぼ間違いないであろう。4.ジュンナル石窟の相対年代―建築様式を基にした仮説的編年ジュンナル石窟には、ビーマ・シャンカル支群の貯水槽の一例を除いて(注10)、造営年代を示唆する資料が全く確認されないが、チャイティア窟の様式的展開から相対年代を提示することは不可能ではなく、その場合に標識となりうるのがレーニアードリー西第6窟である。同窟向かって左に隣接する第7窟〔図12〕は、ジュンナル石窟最大のヴィハーラ窟として知られ、その基本的構造や荘厳形式は、ナーシク第3窟及び第10窟に酷似している〔図13〕。これらナーシクのヴィハーラ2窟は、サータヴァーハナ朝とその拮抗勢力であるクシャトラパ朝が寄進を競ったことにより造営されたことが銘文から知られる(注11)。またレーニアードリー西第6窟の堂内の柱に注目すると、各柱頭に象や獅子など一対の動物像が表されていることが確認できるが、本来、動物のモチーフは祠堂の外を荘厳することはあっても、簡素性を旨とする内部すなわち聖的空間を荘厳することはなく、きわめて異例の荘厳形式を呈している〔図14〕。レーニアードリー西第6窟におけるこの例外的な内部空間は、カールレー第8窟を規範にしたものとみられる。カールレー第8窟にもクシャトラパ朝の寄進銘が確認されるが、その内容は当地を拠点とする仏教教団の運営援助に関するもので、銘文が記録された時点で窟はすでに完成していたことが推測される(注12)。このことから、カールレー第8窟は、ナーシクのヴィハーラ窟およびこれに類似するレーニアードリー西支群に先立って造営されていたと推定することができる。その具体的な年代については、研究者間で現在も絶対的見解に達していない、サータヴァーハナ朝およびクシャトラパ朝の支配時期の同定に関する問題を孕んでいる(注13)。しかしながら、紀元後1世紀第3四半期頃の編纂とされる『エリュトラー海案内記』が、まさにカールレー、ナーシクの銘文に記録されたサータヴァーハナ朝とクシャトラパ朝の抗争に言及していることから(注14)、これらの仏教石窟の造営時期を紀元後1世紀中葉と位置付けることに、大きな齟齬はないであろう。従って、レーニアードリー西第6窟は紀元後1世紀中葉頃に造営されたものと推定され、またクシャトラパ朝の宰相

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