―399―に寄進された貯水槽を含むビーマ・シャンカル支群もほぼ同時期か、ややこれを下ると考えられる。これを基準点として、最古のトゥルジャー・レーナー第3窟と最も年代を下るシヴネーリー東第48窟の造営にどの程度の時間幅があるのかは不明なままではあるものの、前者の造営が紀元後1世紀を下ることはないとみられ、少なくともジュンナル石窟の初期造営からレーニアードリー西支群における大規模な教団活動の展開までに100年程度は要したものと推定される。またシヴネーリー丘陵に開鑿された多数の石窟が、短期間で造営されたとも考えにくく、少なくとも紀元後2世紀前半頃までは、ジュンナル石窟群の造営および運営・維持活動が行われていたと想定できるのである。5.ジュンナル石窟の消長過程―寄進銘の内容分析からジュンナル石窟は、その簡素性から美術史家によって看過されてきた一方で、寄進銘の豊富さから歴史家には盛んに考察されてきた。本章においては、前章で論じたチャイティア窟の様式的変遷を実証的に検証するため、寄進銘の記録内容を分析することによってジュンナルの社会展開と仏教石窟寺院の消長過程を総合的に理解することを試みる。ジュンナル石窟には、初期と晩期に造営された各2支群を除き、全ての支群に少なくとも1例の寄進銘が確認される。特にチャイティア窟に注目すると、寄進銘を伴う最初の造営例と推定されるブド・レーナー第40窟は、ヤヴァナと呼ばれるギリシア系商人によって入口が寄進されたことを記録している(注15)。窟を構成する個別の要素を寄進する方式は、初期の仏教石窟寺院において一般的で、バージャー第12窟をはじめ、最初期に編年されるチャイティア窟の多くは、この寄進形態によって造営されたことが知られる(注16)。交易路沿いに開鑿された仏教石窟寺院は、主要支持基盤である商人階級にとって水汲み場や休憩所として機能したことから、寺院の中核をなすチャイティア窟が在家の集団寄進によって造営されたのは、きわめて自然な展開といえよう。様式的観点からブド・レーナー第40窟に後続するアンビカー第26窟は、一窟としてはジュンナル石窟中最多の銘文数で知られ、主に碑文学者によって盛んに研究されてきた(注17)。筆者が特に注目したいのは、ヴェランダの柱に刻出された銘文と、ヴェランダ奥壁に刻出されたそれとの相違である。ヴェランダの柱に刻出された3例の銘文は、いずれも短いうえ摩耗が著しいため判読不能であるが、柱や梁などといった石窟の個別的要素に短く刻出される銘文の多くが、集団寄進における寄進者名を記録
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