―400―していることは、前述したように初期のチャイティア窟によって示唆されるところである。このことから、アンビカー第26窟の柱に刻出された銘文も、同様の性格を持つものと考えることは不可能ではない。一方で、ヴェランダ奥壁の銘文は刻出場所がかなり無作為で、またその内容には造営寄進に関する言及が一例もないのに代わって、植林地や金銭の預託などが記録されているのである(注18)。一般的に石窟寺院が正面から奥へ、天井から床面へと掘り進められることを考えると、この未完成のチャイティア窟において、ヴェランダ正面の柱以外に造営寄進を示唆する言及がみられないことも納得がいくであろう。さらに類推すると、造営寄進とは無関係の奥壁の銘文は、ここを拠点として仏教教団が運営維持される過程で、寄進を集めるたびに後刻されていったものである可能性が指摘される。アンビカー第26窟に後続するチャイティア窟は全て、一個人あるいは家族など、より小規模な社会集団へと寄進形態が変化している点が注目されるが(注19)、アンビカー第26窟のヴェランダ奥壁と同様に土地や金銭の寄進に言及する銘文が、シヴネーリー東支群のヴィハーラ窟にも確認される(注20)。前述したように、シヴネーリー東第48窟はジュンナル石窟のチャイティア窟で最も造営年代を下ると考えられることから、仏教教団に対する土地や金銭の寄進を許容する宗教的・社会的変化が、紀元後2世紀頃から顕著となってきたことを示唆している。またこの頃になると寄進銘の末尾に「一切衆生の利益と安楽のために」という文言が加わるようになり(注21)、単に寄進者と寄進物についてのみ言及した初期の段階から、功徳を積む行為として寄進行為が社会道徳的に高められたことが理解される。これらのことから、ジュンナル石窟に記録された寄進銘によって、仏教教団を支えた初期歴史時代の社会がどのような思想的変化を遂げたのかが理解され、とりわけアンビカー支群のチャイティア窟は、その変容過程を最も顕著に示しているのである。6.小結本稿は、インド最大の仏教石窟寺院群であるジュンナル石窟を考察対象として、礼拝空間であるチャイティア窟の様式的観察と、寄進銘の内容分析によって、その消長がいかなる歴史的文脈においてなされていったのか、総合的に解明することを試みた。簡潔に要約すると、ジュンナルにおいてはトゥルジャー・レーナー支群の開鑿をもって紀元前1世紀頃に仏教僧院の形成が開始され、紀元後1世紀中葉頃には強大な政治権力と関連しながら、レーニアードリー西支群が大規模な宗教センターとしてその地
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