鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
411/499

注宮治昭『インド美術史』吉川弘文館、1981年、52頁。 例えば、ユネスコ世界遺産に登録されているアジャンター石窟は、19世紀のイギリス人による踏査報告がなされた頃から現在に至るまで、最も活発に研究されてきた石窟である。最新の研究成果には、以下のものが挙げられる。Walter M. Spink, Ajanta: History and Development, 4Volumes, Leiden: Brill, 2005−07.■宮治、前掲書、53頁。■Susan L. Huntington, The Art of Ancient India: Buddhist, Hindu, Jain, New York and Tokyo:例えばグントゥパッリ石窟のチャイティア窟が挙げられる。A. H. Longhurst, “The BuddhistMonuments at Guntupalle, Kistna District,” Annual Report of the Archaeological Department, Southern■Vidya Dehejia, Early Buddhist Rock Temples, London: Thames and Hudson, 1972.■C. D. Deshpande, Geography of Maharashtra, New Delhi: National Book Trust, 1971, p. 18.■G. Bühler, “The Nanaghat Inscriptions,” Report on the Elura Cave Temples and the Brahmanical and■James Burgess, “Memorandum on the Buddhist Caves at Junnar,” Archaeological Survey of IndiaI,Bombay: Government Central Press, 1874; Vidya Dehejia, “Early Buddhist Caves at Junnar,” ArtibusAsiaeXXXI, 1969, pp. 147−66; S. V. Jadhav, Rock-cut Cave Temples at Junnar: An Integrated Study,Unpublished Ph. D. Thesis, Poona: University of Poona, 1980.―401―Jaina Caves in Western India, Bombay: Government Central Press, 1883, pp. 59−74.Weatherhill, 1985, p. 75.位を確立するに至った。その後シヴネーリー丘陵の支群開鑿を中心に、少なくとも50年余は当地の仏教教団は維持されたとみられるが、それを支持する在家社会は、時代を下るにつれて教団施設の造営に対して援助するよりも、出家自らが社会経済活動に従事しうるための土地や金銭を預託するようになった。また、仏教石窟寺院の消長過程は、寄進銘の内容はもちろんのこと、チャイティア窟の開鑿規模や荘厳形式によっても示唆されている。つまり、トゥルジャー・レーナー第3窟においてチャイティア窟は原初的な右繞儀礼の空間であったが、強大な政治権力との関連からその荘厳性を増して、その到達点をレーニアードリー西第6窟においてみることができる。その後、当地における在家社会との関係性を強め、仏教教団が徐々に経済活動と直接に接触するようになると、チャイティア窟はもはや右繞儀礼のための礼拝空間ではなく、出家と在家を寄進と説法の交換関係によって結びつける象徴物として機能するようになったのである(注22)。最終的に仏教教団が石窟寺院を放棄したのは、出家が社会経済活動に主体的に関連するようになったことにより、村落社会、言い換えるとバラモン社会への同化が進行していったためと考えられ、その消長過程は後世におけるインド仏教の衰退過程にも多くの示唆を与えていると言えよう。

元のページ  ../index.html#411

このブックを見る