富士―409―まず「琴」は田楽を焼く後姿の女性である。弦のような細い筋が入り、琴柱のような田楽が幾つも並んだ細長い脚付きの炉の前に座って前かがみに身を乗り出し、袖を伸ばして作業する姿勢は琴を弾く様子を思わせる。その隣で向き合って座る二人が「棋」に相当する。何かを挟んで上から熱心に覗き込む様はあたかも碁盤を前に勝負に興じているかのようで、しかしその実は火鉢に当たりながら田楽を焼く図、という趣向である。向かって左の眉を顰めた人物が田楽をくべようと手を伸ばす仕草が、今まさに一手を打とうと碁石を取った場面にも見える。同じ扇の一番上には、文机の前で姿勢を正した人物が描かれている。右手に持つのは墨をたっぷり含ませた筆、ではなく包丁であろうか。「六歌仙図」にも出てきた四角い菓子を切り分けるところのようだ。これが「書」の見立てである。最後に「棋」と「書」に挟まれるように「画」が配されている。「六歌仙図」中にも見られた、盆上の田楽に手を伸ばす歌仙である。盆に並ぶ田楽は描かれた絵であり、男性が取り上げた一本が絵筆になって、団扇型の画面に絵を描く所作に読み替えられている。一見して分かりやすい表の琴棋書画は両隻に分散して配されているのに対して、気づきにくい裏の琴棋書画は隣接する二扇中に固めるように、三角形構図を持って描かれている。このことも、若冲が意図的に二つの琴棋書画の見立てを仕掛けていたことの裏付けになるかもしれない。面白いのは二つの琴棋書画の描かれ方の対比である。本物の琴や筆が描かれている表の「琴棋書画」では、琴に跨ったり筆を口にくわえたりと、人物は琴棋書画らしからぬ破天荒な仕草をしている。対して、事物が田楽や包丁に置き換えられた裏「琴棋書画」は、動作だけみれば正統な琴棋書画になっているのである。見立て琴棋書画の趣向は、やはり祐信筆『絵本玉かづら』にも見られるものである。三味線を「琴」のやつしとみれば、同書には琴棋書画がその順番で描かれている〔図15、16、17〕。そしてここで「書」に該当するのは、若冲が裏の「書」に使った図の元と思われる、口で墨を吹き付ける遊女の図である。若冲はこの図が「琴棋書画」の「書」の見立てであることを知って、自らも作品中に二つの見立て「琴棋書画」を仕掛けることを思いついたのかもしれない。このようなかたちの遊びと思われる例をもう一つ挙げたい。清話会本左隻第二扇及びデンバー本右隻第四扇である。辻氏が笊碁の洒落であろうかと推察した、碁盤の上
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