■三十六歌仙―両本変更部分――412―「有明の月」とは夜明け前に現れる月を指す。十六夜を過ぎて新月に近い頃なので、ある。そこで、仮に筆をくわえる人物を「しのぶれど色にいでにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで」の歌で有名な平兼盛、傍らで硯を持つ僧侶を、在俗時代の色好みの逸話や小野小町に恋焦がれたまま命を落としたとの伝説が残る僧正遍照だと仮定する。三十六歌仙に僧侶は僧正遍照とその息子、素性法師の二人しかおらず、従って、シャボン玉を団扇で扇ぐ二人(清左1、デ右2)〔図18〕のうち向かって画面右の僧侶が素性法師ということになる。素性法師の歌で最も有名だと思われるのは「いま来むといひしばかりに長月の有明の月を待ちいでつるかな」である。ここで、団扇の風に乗って舞い上がるシャボン玉に注目したい。薄墨で書かれたシャボン玉の輪郭は弧の下の部分が掠れ、下向きの細い三日月のようにも見える。一方、歌中に詠まれる見られる姿は下弦の細い月である。若冲は有明の月の見立てとしてシャボン玉を描いたのではないだろうか。図中のシャボン玉が有明の月を表わすならば、それを仰ぐもう一人の男性も、有明の月に関係のある人物なのであろう。見立てや謎解きに使うには広く知られた題材が望ましいことを考えれば、「朝ぼらけ有明の月とみるまでに吉野の里にふれるしら雪」の坂上是則あたりであろうか。大杯に口をつける歌仙(清右5、デ左5)の傍らには、清話会本では菓子皿が置かれていたのが、デンバー本では三日月型をした尺のようなものに変更されている〔図19〕。これを水に映る月と見れば源順の「水のおもにてる月なみをかぞふればこよひぞ秋のもなかなりける」の歌意を見ることが出来る。同じく碁石で遊ぶ歌仙〔図20〕も、清話会本でばらばらに置かれていた碁石はデンバー本では八橋の形に繋げて並べられ、石橋を連想させる〔図21〕。「いはばしのよるのちぎりもたえぬべしあくるわびしきかづらきの神」の小大君であろうか。六、おわりに以上、若冲の歌仙図について何が書かれているかの考察と、上方絵本との関わり方、そして見立ての読み解きを試みた。歌仙の比定に関してはどの歌仙にどの歌が選ばれているのかが不明のままで不完全な読み解きとなったが、清話会、デンバー両本に若冲が二重三重の趣向を凝らしていた可能性を指摘するため提示した。一部牽強付会の感もあるが、少なくとも若冲は従来指摘されてきた以上に細部まで工夫して、モチーフに意味を込める作業を行っていたと言えるのではないだろうか。
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