D池田遙邨と京都画壇における古典研究―417―研 究 者:倉敷市立美術館 学芸員 佐々木 千 恵池田遙邨(1895〜1988)は、関東大震災後の被災地に取材した《災禍の跡》(1924年)の不評をうけ、一時本拠地の京都を離れ、故郷岡山で自己の芸術を模索する。身辺の変化に従い京都に戻った遙邨は、当時の日本画壇における伝統回帰の流れの中で、大和絵や南画を研究、その成果としての作品を帝展等に発表し、好評を博した。本研究では、遙邨が実際に模写した原典や参考とした資料類を紹介する。まず最初に、本研究の時代背景を概観しよう。元々は洋画家を志していた遙邨は、日本画家に転身し、1919(大正8)年に竹内栖鳳の門下に入る。大正中期頃は、洋画と日本画がジャンルを超えて影響を与え合っていた時代であった。国画創作協会からの影響がうかがえる作品で帝展に入選を重ね、日本画家として順調な道を歩みつつあった遙邨が、ムンクやゴヤに惹かれて作風の展開を試みていた大正末頃は、洋画・日本画ともにアヴァンギャルドの爛熟期であった。さらに昭和の初期にかけては、アヴァンギャルドが尖鋭化し階級闘争へ向かうと同時に、大正期の革新の動きが保守へと転じる過渡期でもあり、洋画と日本画はそれぞれ別々に、成熟の道を辿ることになる。大正末期から昭和初期にかけての日本画壇における新古典主義の流れは、そうした時代背景によるものと言える。さて、1925(大正14)年11月、岡山から京都に戻った遙邨は「新に大和絵、南宋画と古典への研究へ一転して博物館や寺社で模写に励」んだ(注1)。その翌年、《林丘寺》〔図1〕が第1回聖徳太子奉讃美術展に入選、《南禅寺》〔図2〕第7回帝展に入選する。《南禅寺》入選当時、新聞紙上において、遙邨は次のように率直に語っている。「風景画が洋画の写実的影響を受けたのももう過去のものでその反動は大和絵に眼をむけようとしていますが、これは当然の推移かと思われます。南画は混沌としてゆく先が判らず四条派も浮ばず、今後の風景は大和絵の復活によって新古典ともいうべき好い作品が生まれ出るだろうと思っています。」(注2)この発言に限らず、とりわけ戦前の作風の変遷を鑑みるに、遙邨には時代の空気を読み、それに反応する体質が備わっていたものと思われる。また、大正末期から昭和初期にかけて、大和絵に琳派や南宋院画などを取り込んだ新古典主義の流れが明らかになっていく。日本美術院では速水御舟、安田靭彦、小林
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