―418―(春浦院)、「一遍上人絵巻」(歓喜光寺)。(すべてタイトルは「」囲いで、書籍掲載古径、前田青邨らが、その流れの代弁者となる。官展系では大正10(1921)年に、松岡映丘、川路柳虹を顧問とし、映丘門下生らが新興大和絵会を立ち上げており、2年後には高木保之助、山口蓬春らが会に参加している。いずれも東京中心の動向であるが、京都においては、明治末頃、師・竹内栖鳳の助手として東本願寺山門天井絵制作に携わって以来、仏画や桃山障壁画などの研究を行なっていた土田麦僊をはじめ(注3)、大正末期には、福田平八郎や徳岡神泉が中国、宋・元代の絵画の研究に没頭しており、宋元院体画研究の成果としての作品を発表している。平八郎や神泉、遙邨らは皆この頃、京都の下鴨川原町に居住しており、しばしば集まって芸術談義に花を咲かせ、技法の研究をしたという(注4)。それでは、遙邨は実際にどのような作品を研究し、実制作に生かしていったのか。京都府総合資料館蔵には、遙邨旧蔵の文献資料が大量に残されているが、その中でも大正末期までに発行されたもので、古画研究当時、遙邨が特に参考にしたと思われるものに、『日本細画集覧』(編輯兼発行者:後藤博山 発行所:平安精華社 1924年)が挙げられる。目次によると第1輯から第6輯まで発刊。収録されているのは、「過去現在因縁果経」(上品蓮台寺)、「華厳縁起」(高山寺)、「北野天神縁起」(北野神社)、「福富草紙」時のまま)ただし旧遙邨資料では目次は第3輯から第5輯までしかない。おそらく第1、2〜6輯の図版も含まれるが、欠落分もあるものと思われる。和綴じの画集なので、遙邨が模写など、画集を参考する際にばらばらにして、失われたものもあったのではないかと推測される。その中で、確認できる遙邨旧蔵の資料は「福富草紙」より5枚、「一遍上人絵巻」より13枚、「北野天神縁起」より8枚、原典不明3枚で、後に遙邨が最も影響を受けたという「一遍上人絵巻」が最も多い。しかし、『日本細画集覧』に掲載されている「一遍上人絵巻」は、遙邨が模写をした山水の描写よりもむしろ人物や家屋、田園風景などの描写部分が取り上げられており、この画集からの模写は確認できない。また遙邨旧蔵資料に『一遍上人絵巻 復刻版』(全12巻・発行所:博雅會 昭和17年)もあるが、こちらは研究のためというよりは、かつて影響を多大に受けた作品として、後年入手したものであろう。また、遙邨は南宋画にも学んだと述懐しているが、1926(大正15)年に恩賜京都博物館にて特別展覧された南宋画展のカタログ『支那花鳥画册』(編集兼発行者:田中
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