鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―422―されている。・〔図19〕巻10−10紙:伊予国大山祗神社の社殿裏の山。神社拝殿は省かれている。なお今回原典のどの部分を模写したか未確認であるが、《融通念仏縁起》(伝 土佐光信(重文)禅林寺蔵、京都国立博物館寄託)からの模写もある。遙邨は古画を模写するに当たり、寺社仏閣や博物館を回ったと述べているが、ここでの「博物館」はおそらく1897(明治30)年に開館した帝国京都博物館(現在の京都国立博物館)であろう。中には寄託作品を美術館で模写していた可能性も高い。古画研究の成果を問うた《林丘寺》、《南禅寺》には参詣曼荼羅や宮曼荼羅の影響が見られるとの指摘がある(注7)。遙邨による参詣曼荼羅や宮曼荼羅の模写は現在確認できていないが、《一遍聖絵》において名所絵的に風景が描かれるとともに、岩清水八幡宮や熊野本宮などの聖域の描写が宮曼荼羅の構図と近似しているといったことから(注8)《一遍聖絵》を介しての影響とも考えられる。なお《林丘寺》は大和絵よりはむしろ南画の味わいが深いが、実際にどのような経緯で遙邨が南画を研究したかは不明であり、模写も現在未確認である。今後の調査課題としたい。さて、これらの絵巻の模写において、遙邨は徹底して人物や建築物を省いて、山水表現のみ(あるいは樹木や動物など)を描いている。遙邨の古典研究は、風景描写に焦点が当てられていたと言えるだろう。遙邨は《南禅寺》入選当時、「私は一遍上人絵巻が芸術的価値の上で実に立派な作品で、その力強い表現にすっかり感嘆しているのでしたが今後の作品はこの絵巻が語っている。《南禅寺》の俯瞰的な寺社の描法には、おそらく一遍聖絵の寺院の伽藍から学んだ部分もあるだろう。しかし《南禅寺》以上に古画研究の成果が直接的にうかがえるのは、翌年の《華厳》(1927年)〔図20〕においてである。《華厳》制作にあたっては徹底した写生〔図21〕を行いながら、本画では屹立した岩山の描写が、奥深い自然に神仏が宿るかのような聖なる印象を与えている。このように、徹底して人物を排した模写と、②や③の人物表現に主眼をおいた模写が、同時期に行なわれたとは考えにくい。とりわけ③の、洛中洛外図か祭礼図等の近世初期の風俗画の模写は、遙邨が元来持っていた人間への関心が高まり(注10)、群集表現へ意識がシフトしている状況を感じさせる。賀茂競馬や曲芸の観客の模写〔図22〕は《祗園御社》(1931年)〔図23〕への伏線を感じさせるし、漁村・農村の風景(船作りや出漁の図、農耕行事である綱引きをする人々と綱を綯う人々を描いた図等)〔図24〕は《大漁》(1932年)〔図25〕への伏線を感じさせるものである。ところで古画研究を基礎にすえた、風景や人物などの一部分を独立させたような作ママ幾多の暗示を受ける所がありました」(注9)と

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