鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―429―の考察を加えたい。一、ウォルターズコレクションについてアメリカ合衆国メリーランド州に位置するボルチモアはチェサピーク湾に面する港湾都市で、二十世紀の初頭までは交通の要所として栄えた。1830年にボルチモア、オハイオ間に鉄道が開通すると工業都市としても発展し、十九世紀の半ばには全米第二の都市となった。ウィリアム・T・ウォルターズは初め酒販業で財をなしたが、後に鉄道事業に投資し莫大な富を得た。ウォルターズ父子と美術との出会いは、南北戦争の混乱を避けて渡航したヨーロッパ滞在中に遡る。特に1862年、ロンドンで開催された第二回万国博覧会会場で東洋美術を観賞したことにより、日本や中国の美術に対する知識を深めた。1873年に開催されたウィーン万国博覧会では中国陶磁器を購入するなど、ウィリアム・T・ウォルターズの東洋美術に対する興味は博覧会を通して徐々に広がっていった(注3)。ウィーン万国博覧会の三年後、1876年にアメリカ合衆国独立百年を記念してフィラデルフィアで万国博覧会が開催された。この博覧会でウォルターズが購入した日本の出品物は四百点余りといわれる(注4)。南北戦争終結後、急激な経済発展を遂げたアメリカには、新たな資本家たちが多数生まれていた。ウォルターズをはじめ、東海岸の富豪たちのなかにはヨーロッパとアメリカを行き来するものも多く、ヨーロッパにおける日本美術に対する関心はアメリカ東海岸にも伝わり高まりをみせていた。ボストンはもとより、ニューヨーク、フィラデルフィア、ボルチモアなど、東部の資産家は東洋からの美術工芸品を熱心に蒐集し、新しく建築した邸宅を異国の装飾物で飾ることが流行した(注5)。この時期アメリカで好まれた室内装飾の様式は1820年代にパリで始まり、イギリスを経由して広まっていたロココ・リバイバルであった。日本の蒔絵はロココ様式に必要不可欠な装飾品であったことにも影響され、またアジアに対する関心の広がりとも呼応し、エキゾティックな装飾品として好まれた。ヘンリー・T・ウォルターズの蒔絵購入の直接の契機は、ヨーロッパで出会った日本美術愛好家たちの影響によるもところも大きいが、欧米における東洋美術品購入ブームの背景にはこうした室内装飾様式の流行があったことも忘れてはならない。1880年、ニューヨークで刊行された美術批評誌『The Art Amateur』に「JAPANESELACQUERS(日本の漆器)」という記事が掲載された(注6)。この記述は当時、欧米で日本の漆器、特に蒔絵がどのようにとらえられていたかを如実に示している。冒頭の表題の頭には「Bric a Brac」の文字が帯状に書かれており、様々な小物の挿図が

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